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「女」の世界歴史(連載第45回)

2016-08-24 | 〆「女」の世界歴史

第四章 近代化と女権

(4)アジア近代化と女性

③トルコ革命と女性
 オスマン・トルコでは16‐17世紀に後宮が政治を主導する「女人政治の時代」を経験したが、基本的には他のイスラーム諸国同様、女性全体の地位は低い状態に置かれていた。しかし、晩期の西欧化改革(タンジマート)は、結果的に近代的な女性運動を惹起した。
 とはいえ、本格的な女性運動が組織されるのは、体制末期に青年トルコ人運動が興った時であった。1908年に設立されたオスマン女性福祉機構がそれである。立憲革命に結実した青年トルコ人運動も主要メンバーは男性が占めていたが、幾人か女性の姿もあった。
 その代表的な人物としては、オスマン帝国初の女性小説家と目され、かつフェミニストでもあったファトマ・アリエ・トプズ、共和革命後にトルコ史上初の女性政党を設立するジャーナリストのネジヘ・ムヒッディン、小説家で女権運動家もあったハリデ・エディブ・アドゥヴァルなどがいる。
 特にアドゥヴァルは第一次世界大戦での敗戦後、英国やギリシャによる占領への抵抗を呼びかける扇動者として活躍、続く対ギリシャ戦争ではレジスタンス軍の下士官として参戦さえした。23年の共和革命にも参画したが、独立戦争以来の同志でもあった初代大統領ケマル・アタチュルクとは対立し、亡命を強いられた。
 アドゥヴァルとは全く違うタイプの女性戦士として、農民出身のハトゥ・チュルパンがいる。彼女も独立戦争で兵士として活躍し、その功績を知ったアタチュルクの推薦により、革命後、35年の選挙で当選した18人の女性国会議員の一人となった。また、戦争未亡人のカラ・ファトマも公式に民兵隊を率いて独立戦争を戦い、当時女性としては異例の中尉にまで昇進した。
 このようにトルコ独立戦争及びその延長的な共和革命には、少数ながら女性戦士の姿も見られ、また戦士ではないが、トルコ史上初の女性医師となったサフィエ・アリも独立戦争で兵士らの治療に活躍している。
 こうして、トルコの近代化がイスラーム世界と言わず、アジア全体でも例外的に女性の地位向上を後押ししたのも、一つには徹底した近代主義者としてのアタチュルクの姿勢が影響していたかもしれない。
 アタチュルクは、革命後、一夫多妻慣習の廃止、離婚や相続における男女平等などの近代化を実行し、さらに1930年には地方で、34年には国政での女性参政権を認めるなど、女性の地位向上も近代化プログラムの柱としていた。
 ちなみに1923年から25年までの間、アタチュルクの妻で共和革命後、初代のファーストレディとなったラティフェ・ウッシャキはパリとロンドンで教育を受けたトルコにおける近代的な女性法律家の草分けであると同時に、近代的なファーストレディとして公の場にもヴェールを脱いで姿を見せるなど、近代的女性の範を演じた。
 なお、短い結婚生活のため、実子のなかったアタチュルクは多くの養子を取ったが、そのほとんどが養女であり、その中には世界初の女性戦闘機パイロットとなったサビハ・ギョクチェンがいる。また、別の養女アフェト・イナンは指導的な歴史学者となった。このように、アタチュルクは政策としてのみならず、自ら女子を養子として育成する試みを行なうほど、女子教育に関心が高かったようである。
 しかし、こうした革命初期の女性の地位向上は多分にしてアタチュルクの個人的な改革姿勢に負っていた要素が強く、かつ保守的なものであったため、先のムヒッディンが設立したフェミニスト政党は合法性を認められなかった。
 結局、革命後も、トルコにおける女性の法的権利と現実の社会的地位のギャップは容易に埋まることはなく、実際、女性国会議員数も35年の選挙時をピークに減少し、やがて一桁台に落ち込んでいくのである。


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