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戦後日本史(連載第8回)

2013-06-18 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第1章 「逆走」の始動:1950‐60

〔三〕親米保守主義者の台頭

 1950年に始まる「逆走」、とりわけ集中的な「逆コース」施策を終始日本側でリードしていたのは吉田茂であった。彼は46年から47年にかけて短期間首相を務めた後、48年に首相に返り咲いてから占領終了をまたいで54年まで首相の座にあった。
 自由民権運動の闘士を父に持つ吉田は、戦前は日米開戦に反対した穏健な職業外交官であり、戦後は公職追放を免れたが、本質的には保守主義者であり、占領=革命に対しては復古的な勢力の代表者として実力を伸ばした。
 外交官出身で交渉術にも長けた吉田は、理念転回した後の占領当局にとっても好都合な人物であり、実際、彼はGHQの意を体して日本政府をとりまとめ、米国による反共の砦化戦略にも積極的に協力した。
 その吉田が退任した翌年の55年にはいわゆる保守合同が成り、自由民主党(自民党)が結党される。新たな時代を画するこの新局面は、その直前に社会党が分裂していた左右両派の再統一により最大政党化する兆しを見せたことに対するブルジョワ保守層の危機感を背景としており、その背後には社会主義政党の躍進が反共の砦化戦略の遂行上妨げとなることを恐れた米国の意図も働いていたことは確実である
 自民党はその一見リベラルな党名とは裏腹に、日本国憲法を占領下で「押し付けられた」ものとみなし、事実上の憲法廃棄を意味する「自主憲法制定」を大きな課題として掲げ、社会党・共産党等の「階級政党」の排撃を公然と唱導する保守反動政党としてスタートした。
 この党は内部に若干の路線差を蔵しながらも、反共保守層を広く糾合し、以後93年に比較第一党の座を維持したまま一時下野するまで、38年にわたって政権党の座にあり続け、この間の「逆走」の全プロセスをリードしていくことになるのである。
 政治制度上は社会党や共産党のような社会主義・共産主義政党の存在を容認する多党制の下で、ブルジョワ保守政党が徹底した組織動員選挙を通じて継続的に政権党の座を維持するこの体制―ブルジョワ・ヘゲモニー―こそが、「逆走」の政治マシンである。
 このいわゆる「55年体制」の支配層として台頭してきたのは戦前軍国期の反米保守主義者ではなく、米国の庇護を受けて米国の国益に奉仕しつつ、米国の黙認の下に戦前的体制を順次復活させる事大主義的な傾向を持った親米保守主義者たちであった。
 こうして戦後登場した新たなタイプの保守主義者を糾合するアンブレラ政党として、事実上の世襲を伴いつつ世代を継いで今日まで機能し続けているのが自民党であると言える。

〔四〕右派・岸内閣の登場

 55年の保守合同をまたいで最初の自民党首相となった鳩山一郎が56年に退任した後、二代目の自民党首相に就いたのは、意外にもリベラル派の石橋湛山であった。
 石橋は戦前はリベラル保守主義者として自由主義的な立場で論陣を張った経済ジャーナリスト出身であった。このような人物が逆コース渦中に首相に就いたのは、逆コースの行き過ぎに対する保守層内部からの警戒感の表れとも言えた。
 しかし石橋は就任後間もなく病気で倒れ、わずか1か月ほどで退任する。歴史に仮定は禁物と言われるが、あえて禁を破って石橋が健康体で政権を維持したと仮定しても、リベラル派の政治基盤は弱く、「逆走」の流れを止めることはできなかったであろう。すでに逆走する車は動き出していたのである。
 石橋の後任となったのは、旧商工省官僚出身の岸信介であった。岸は戦前、満州経営にも関わった経済官僚として戦後は戦犯容疑で逮捕されたが訴追は免れ、一時公職追放されていた、そうした出自からも、岸は自民党では右派の代表格であった。その岸を政権の主とする内閣が登場したことは、「逆走」がいよいよ佳境に入ることを意味していた。
 岸内閣の最大使命となったのが、日米安保条約の改定問題であった。52年発効の旧安保条約はいまだ表向きは「非武装」である日本を米国が保護的に防衛するという片務性の強い内容であったが、これでは反共の砦化戦略にとって不十分であったため、日本自身も自国防衛義務を負うという双務的な形を取りつつ、米軍の協力組織としての自衛隊の存在と活動を承認する新たな内容に改定する必要があった。
 58年から交渉に入った安保改定はしかし、最大野党・社会党をはじめ、民衆の強い反対を受け、安保改定反対闘争を激化させることになった。これに対して、岸内閣は大衆運動を徹底的に抑圧する方針で臨み、60年に新安保条約の調印に漕ぎ着けた。
 岸内閣は抑圧的な治安政策とともに、国民皆保険・皆年金のような社会保障制度の整備にも着手し、「アメとムチ」政策によるセキュリティー統治を本格的に試み、長期政権化するかに見えた。


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