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スカイツリー考

2013-06-01 | 時評

東京スカイツリー開業から一年を過ぎ、在京テレビ放送もツリーへ移行した。日本が世界に誇る尖塔にまだ登っていないばかりか、行って見てもいない筆者はもう立派な非国民だろう。

筆者がスカイツリーに否定的なのは、高所恐怖だけが原因ではなくて、あのように高さを誇示するような建築思想に批判的だからだ。どうも日本を含むアジアのほか、アメリカにも「高層建築=近代化の象徴」という公式があるようで、むやみに高い建物を建てて喜んでいる。こういう皮相な発想は近代化の元祖・西欧にはないから、西欧では建物の高さを競い合うような風潮は見られない。西欧は首都でも古い町並みがよく保存されていて、意外にのどかな感じである。

もっとも、スカイツリーは単に物理的に高いだけがとりえではなく、芸術的にも先行の東京タワーより価値が高いという評価もあろうが、筆者からすると、専ら物理的な高さを追求していることがすでに芸術性を低めているし、周辺の下町風情を疎外する景観侵害の疑いも持たれる。西欧なら首都でも建築制限規制がかかったかもしれない。

アジアには「アジア的近代化」の考え方があると言われるかもしれないが、それは二番煎じの薄味近代化論だろう。それよりも前近代の面影深い墨田の下町―今、模範国民的スカイツリー客の傍若無人な振る舞いに悩まされている―を静かに散策したほうがよさそうだ。

移行前の試行では受信障害が広範な地域に生じ、社会的なコストのかかる「対策」を強いられたことからして、電波行政的にも疑問の拭えない尖塔である。


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