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マルクス/レーニン小伝(連載第38回)

2012-12-06 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 ウラジーミル・レーニン

第2章 革命家への道

言っておかねばならないが、彼が1894年頃の労働者、それも未熟練労働者に、まだ十分に成長してもいない労働者に、こんな学問的な厚い書物をいきなり持ち込んで科学的な大著の説明をしようというのだから、可笑しく思われるかもしれない。
―妻ナジェージダ・クループスカヤ


(1)ペテルブルクへ

サマラの倦怠
 弁護士となったレーニンは1892年、サマラ市内で弁護士活動を開始した。とはいえ、地主稼業と同様、金を稼ぐことには熱意と才覚が乏しかったようで、新人弁護士レーニンのもとに客は集まらなかった。
 しかし、彼はあまり気にするふうでもなく、むしろ閑を利用してマルクス主義研究会を組織し、マルクス理論の研究を本格的に始めたのだった。おそらく彼がマルクス主義者としての自己認識を持ったのは、この時期であろう。
 一方で、彼は前に述べた短期の農場経営以来関心を深めていたロシア農村に関する実証的な研究にも着手し、ナロードニキ系運動とコンタクトを取ることもした。
 このようにサマラ時代は革命家レーニンにとって、パン種の発酵期のような時期であったと言える。ただ、当時のサマラはヴォルガ河流域の産業都市として発展しつつあったとはいえ、やはり地方都市であり、司法試験受験時に初めて帝都ペテルブルクを体験していた彼にはいささか退屈なのであった。
 こうした点で、レーニンは「民衆の中へ」を合言葉に農村に住み込んで活動したかつてのナロードニキ系運動家たちとは性格を異にし、やはり都市労働者の団結に重点を置くマルクス主義系の運動家であった。彼は93年8月にはサマラを去り、ペテルブルクへ移っていった。レーニン23歳の時である。

マルクス主義研究会での活動
 ペテルブルクへ出たレーニンは、もはや弁護士活動はそっちのけで、首都のマルクス主義研究グループとコンタクトを取り、さっそく活動を始めた。地方から突然現れたこの青年法律家はすでにマルクス理論を我が物としており、首都のマルクス主義者たちからもたちまち一目置かれる存在となった。
 一方で、彼は労働者サークルにも出かけて『資本論』の講読会を開くかたわら、労働者の労働条件や生活意識などを聞き取り調査する実証的な研究も始めた。彼が後に「労働者は自力では組合的意識しか作り上げることができない」と定言的に断言するに至ったのは、この時の体験によるものではないかとも思われる。
 この時期のレーニンに関して重要なのは、デビュー作とも言える論文「市場問題について」を執筆したことである。これはペテルブルクへ出た直後の93年秋にマルクス主義研究会で行った発表のベースになったもので、その趣旨はナロードニキ経済理論との対決にあった。
 ナロードニキは資本主義を飛び越える独自の農民社会主義論を主唱するに当たって、従来「ロシアにおける資本主義は農民大衆を没落させ、国内市場が縮小する一方で、ロシアのような後発国が海外市場に割り込むことは不可能であるから、ロシアにおいて資本主義が高度に発達する余地はない」という理由づけを与えていたからである。
 これに対して、レーニンは、マルクスの『資本論』第2巻第3編「社会的総資本の再生産と流通」で展開された再生産表式論に依拠しながらナロードニキ理論に反証を加え、独立生産者の没落と賃金労働者への転化はかえって国内市場を整備・拡大するものであることを論証した。
 この論文を通じて、レーニンはナロードニキと対置させる形で、マルクス主義者としての自己を鮮明に打ち出したものと言える。この路線は6年後に完成する大著『ロシアにおける資本主義の発達』に結実する。

将来の妻クループスカヤ
 レーニンは1894年、ペテルブルクの労働者サークルで、やがて妻となる女性ナジェージダ・コンスタンティノヴナ・クループスカヤと知り合い、交際を始めた。
 彼女は貴族出身のロシア陸軍軍人の父と下級貴族出身の母との間にロシア帝国領ポーランドで生まれた。父はポーランド勤務中、反露活動に関与した疑いをかけられ軍を追われ、一時は工場労働者となった。母は高い女子教育を受けた教養人で、クループスカヤ自身も女子教育を受けて教員となり、レーニンと知り合った当時は、夜間学校の教師をしながらマルクス主義研究会に参加するなど、マルクス主義者としての道を歩む青年女子の一人であった。
 4年ほどの交際の後、共にシベリア流刑中、レーニンと結婚したクループスカヤは夫より1歳年長であった。そして良き伴侶同志として夫と苦難を共にし合った点では、マルクスの妻イェニーと通ずるところがある。
 ただ、レーニンとクループスカヤの間にはマルクスとイェニーの間に見られたような古典的ロマンスの関係はもはや見られなかった。二人の関係は驚くほど今日的な交際関係と、その結果としてのパートナーシップ的な夫婦関係の性格を持っていた。二人は子どもを持たないDINKSの走りでもあった。そうした点では、マルクス夫妻よりも、事実婚の関係を保ち、子どもも持たなかったエンゲルス夫妻のほうに近かったと言えるかもしれない。
 クループスカヤは夫と死別した後、史料的価値の高い回想録を公刊している。


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