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マルクス/レーニン小伝(連載第42回)

2012-12-20 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第2章 革命家への道

(4)社会民主労働者党への参加

結党の経緯
 ロシアにおいても本格的なマルクス主義政党を結成する必要性に関しては、1895年のレーニンとプレハーノフらとの最初の面談で意見の一致を見ていたが、実現を見ないうちにレーニンらが逮捕され、流刑に処せられてしまったことで、いよいよもって実現の目途が立たなくなってしまった。
 そうした中、レーニンとは別のグループによって1898年にミンスクで社会民主労働者党第一回党大会が開催された。しかし、この大会にはわずか6組織9代議員しか参加せず、流刑中のレーニンらは当然にも参加することができなかった。しかも、大会は党創立を宣言するだけに終わったうえ、直後に治安当局の摘発を受け、事実上壊滅状態となった。こうしたことから、この大会を正式の創立大会とみなすべきかどうかについては議論がある。
 ちなみに、ミンスク大会の宣言を起草したのはピョートル・ストルーヴェで、彼はまさにレーニンが「何をなすべきか」で批判の俎上に乗せた経済主義の中心人物であった。後にレーニンから変節漢と痛罵された彼は実際、10月革命後の内戦期には反革命の白軍地方政府の外相も務めた。
 そのストルーヴェはレーニンの非妥協的な性格を批判しつつ、彼の立脚点は憎悪にあると指摘した。たしかに、帝政ロシアに敬慕する兄を奪われ、自らも入学したばかりの大学を理不尽な仕方で退学させられ、流刑にも処せられ、その後も長い外国亡命生活を強いられたレーニンが帝政ロシアに対する憎悪をその非妥協的な革命運動のエネルギー源としていたということは、十分考えられることである。

分裂含みの党再建大会
 ロシア社会民主労働者党の実質的な創立大会と位置づけられ得るのは、レーニンらも参加して1903年7月に当初ブリュッセルで開かれた第二回大会であった。この大会には26組織57代議員が参加し、どうにか大会らしき体裁は保っていたが、開催場所はブリュッセルの麦粉倉庫であった。 
 レーニンは大会に先立ち、党の主導権を握ろうとするプレハーノフが起草した綱領案をめぐってプレハーノフと対立していたところであったが、彼はまたもや大先輩プレハーノフを立てて譲歩したため、綱領案はスムーズに採択された。その綱領案の討議中にベルギー警察の手入れが入りかけたためにロンドンに移された舞台では、大きな波乱が待っていた。
 最初の問題は、党員資格について定める党規約第1条案をめぐり、これを広くとって党組織の指導を受けて党に協力していれば党員とみなすとの案を出したマルトフと、狭く限定して党組織に参加しない限り党員と認めないとする案を出したレーニンが対立したことであった。
 ここで、レーニン案が「何をなすべきか」の少数精鋭主義の革命前衛理論を前提としていることは明らかである。彼からすれば、マルトフ案は職業的革命家の組織と労働者大衆組織とを混同するものにほかならなかった。この件に関しては、プレハーノフはレーニン支持に回ったが、結局マルトフ案が採択されることになった。
 早くも表面化してきたレーニンとマルトフの対立は、続いて党中央機関の人事をめぐる討議で頂点に達した。権力闘争では学究肌のマルトフに勝るレーニンは党機関紙となる『イスクラ』の編集部からプレハーノフに服従するアクセリロードとザスーリチの両ベテランを追放することのほか、中央委員会をレーニンに近いメンバーで固めることにも成功したのである。マルトフは激しく反発したが、及ばなかった。
 こうして、実質上の新党の創立を実現した党第二回大会は、ひとまずレーニンが党の多数派(=ボリシェヴィキ)を掌握し、マルトフらの少数派(=メンシェヴィキ)に勝利した形となった。その結果、ロシア社会民主労働者党は実質上のスタート時点から二大派閥に分裂したのだった。この分裂はやがて来たる革命の中で、党内問題を超えた理論上・実践上の対立に発展していくであろう。

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