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マルクス/レーニン小伝(連載第40回)

2012-12-12 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第2章 革命家への道

(3)何をなすべきか

新聞『イスクラ』創刊
 レーニンの流刑は1900年1月に満了した。彼はあと一年流刑期間が残されていた妻クループスカヤといったん別居して、ペテルブルク近郊のプスコフという町に落ち着くことになった。
 レーニンの流刑体験はドストエフスキーの場合のように思想的転向の契機とならなかったどころか、かえって彼の念頭には新しい世紀における革命運動の方法についてのアイデアが浮かんできていた。帝政ロシアの側から見れば、レーニンに対するかれらの処分は手ぬるすぎたということになろう。
 しかし、レーニンたちの運動は当時、当局にとっては必ずしも重大視するまでもないマイナーなものに映っていたこともたしかであった。当時なおロシアのマルクス主義運動はナロードニキの影に隠れていたからである。
 レーニンは同時に流刑が満了したマルトフらと再び落ち合い、まずは彼らの主張の宣伝を担うマルクス主義の全国新聞を創刊するプランを話し合うため、プレハーノフらの滞在するスイスへ再び旅立った。
 彼らはジュネーブでプレハーノフにパーヴェル・アクセリロード、ヴェラ・ザスーリチを加えたロシアの言わば革命三長老と面談したが、ここでの問題はプレハーノフの大御所然とした権威主義的態度にあった。彼は新しい新聞の編集で主導権を握ろうとしていたのだ。それを察知し、憤慨したレーニンは帰国も考えたが、結局プレハーノフを立て、彼が6名の編集部員の中で特別に一人二票の編集権を保有するという不公平な取り決めに同意した。
 こうして、レーニンにとって甚だ不本意な変則的方針を採用しながらも、ロシア語で火花を意味する『イスクラ』と名づけられた新しい新聞は1900年12月、ドイツで創刊の運びとなった。翌年6月には流刑が満了したクループスカヤも合流して、通信員を引き受けるようになった。
 こうして誕生した『イスクラ』は、世紀の変わり目前後のロシアにおける新旧の主要なマルクス主義者たちを結集しつつ、ロシアの新しい革命運動の小さな炎となったのである。

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