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近代革命の社会力学(連載第127回)

2020-07-20 | 〆近代革命の社会力学

十七ノ二 フィンランド未遂革命

(1)概観
 スウェーデンとロシアの間に挟まれたフィンランドは長くスウェーデンの支配を受けた後、19世紀初頭以降、敗戦したスウェーデンから割譲を受ける形でロシア帝国版図となり、ロシア皇帝が大公を兼ねる自治的なフィンランド大公国としてロシアの支配下にあった。
 そうした関係上、フィンランドはロシアにおける20世紀の革命動向の影響をほぼ直接に受けることとなった。1905年のロシア立憲革命は、フィンランド民族主義の芽を摘むため、自治権剥奪の方針を示していた時のロシア皇帝ニコライ2世に方針撤回を余儀なくさせた。
 続く1917年革命で帝政ロシアが倒れると、正式の独立へ向けた機運が到来し、フィンランド議会は十月革命直後の12月、独立を宣言した。時のロシア側ボリシェヴィキ政権としても、帝政ロシアと一体だったフィンランドの独立は革命の象徴でもあり、独立を承認する構えであった。
 しかし、当時のフィンランドではボリシェヴィキの影響を受けた急進派が伸張し、ロシア十月革命に歩調を合わせた革命を準備していた。かれらは、ロシア側でボリシェヴィキがクーデターを起こした直後の1918年1月末に蜂起し、フィンランド社会主義労働者共和国の樹立を宣言した。
 発足したばかりのボリシェヴィキ政権としても、地政学的に西側への入り口となるフィンランドに親ボリシェヴィキ派の社会主義政権が樹立されることは望ましかったから、フィンランド革命政権を直ちに承認し、同年3月には友好条約の締結に至った。
 このまま確定すれば、新生フィンランドが歴史上二番目の社会主義国家として歴史に記録されたはずであるが、そうはならなかった。革命に反対する保守派が直ちに決起し、内戦に突入したからである。
 この内戦は、ロシアにおける内戦と同様、革命派の赤衛軍と反革命派の白衛軍の間で行われることとなったが、結果は対照的に白衛軍の勝利となり、フィンランド社会主義労働者共和国は一度も全土を征することができないまま、わずか3か月余りで崩壊した。そのため、フィンランド革命は未遂に終わったことになる。
 しかも、ボリシェヴィキ政権を後ろ盾とし、フィンランド社会主義労働者共和国の名称もレーニンが命名したと言われる姉妹共和国の性格が強いものであったことからしても、「フィンランド未遂革命」は総体としてロシア革命の副産物としてとらえられるべき事象である。
 ただ、ロシア革命の単なる余波事象を越えて、そこにはスウェーデンとロシアの狭間にあるフィンランド独自の地政学を反映した個別性も認められるため、ロシア革命と関連付けしつつ、そこから分岐した革命的事象として本章を独自に立てることにする。

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