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近代革命の社会力学(連載第125回)

2020-07-13 | 〆近代革命の社会力学

十七 1917年ロシア革命

(12)革命の輸出
 1917年ロシア革命、中でも十月革命によるボリシェヴィキ政権の成立に続き、史上初めて共産党を名乗る政権が支配するソヴィエト連邦が樹立されたことは世界史的な激震であり、主要国は軒並み革命の波及を警戒した。列強による干渉戦としてのシベリア出兵は成果を上げなかったとはいえ、ソヴィエト共産党政権は国際的な孤立無縁状態にあった。
 そこで、状況打開のため、レーニンとソ連共産党は諸外国での同種革命の助長と支援を意識的に行った。従来の諸革命でも、その影響が外国に波及することはしばしばあったが、諸外国に革命を積極的に「輸出」するという策は、ソ連共産党が始めた新策であった。
 このような革命の輸出は、すでに内戦中から、旧帝政ロシア版図に属した周辺地域に対しては「小さな輸出」として行われていた。1922年に最初のソ連邦構成国となるアゼルバイジャン、グルジア(現ジョージア)、アルメニアを包括したザカフカ―スやウクライナ、白ロシア(現ベラルーシ)が、その最初の事例であった。
 内戦中、これらの地域はロシアからの分離独立の動きを見せていた。中でも、ウクライナは二月革命当時、ロシアからの独立を目指し、ウクライナ人民共和国を樹立して対抗していたが、ボリシェヴィキ党はこれを認めず、親ボリシェヴィキ派で固めた同名のウクライナ人民共和国の結成を支援した。
 ボリシェヴィキ党はこのようにして、周辺地域にも革命を輸出し、親ボリシェヴィキの地域的な革命政権の樹立を支援する形で、最終的にソ連の領域に組み込んでいったのであった。こうした「小さな輸出」は中央アジア方面にも及び、最終的に、ソ連はロシアを軸に、全15ものソヴィエト共和国で構成される広大な連邦体となった。
 このように、ソ連という新国家自体が革命の輸出によって形成されたと言ってよいのであるが、周辺諸国以外への「大きな輸出」の核となったのが、1919年に結成された共産党の国際組織「共産主義者インターナショナル」(コミンテルン)である。
 この組織の理念的なバックボーンとなったのは、労働者階級による共産主義革命と資本主義の廃絶を歴史的必然とみなす世界革命論であったが、ソ連における世界革命論はそうした社会理論を越えて、ソ連と同盟する親ソ政権をさしあたりは欧州各国に拡大することで孤立を解消する外交戦略でもあった。
 コミンテルンは、発足当初のソ連外交政策を支える革命の輸出のマシンとして機能することが期待された。そのため、コミンテルンの加盟条件としても、内乱へ向けた非合法組織の設置、党内における鉄の規律、共産党への党名変更など、ソ連共産党と同等の目的・組織を持つことが要求された。
 このことにより、各国で従来活動してきた労働者階級政党が、まさにロシア社会民主労働者党におけるボリシェヴィキとメンシェヴィキの分裂と同様の党内分裂をきたし、親ソ派勢力がコミンテルン入りしてソ連共産党の各国支部に近い形となった。
 このような分断策は功を奏し、コミンテルンの結成を契機に、各国で共産党の結党が相次いだ。その余波はコミンテルンの当初の予定を越えて、中国や日本のようなアジア諸国にも及び、中国共産党や日本共産党の結党につながっていく。こうして、20世紀は、今日でも世界の大半の諸国に大小問わず共産党が存在するという形でその影響が残る「共産党の世紀」ともなっていくのである。
 ただ、革命の輸出は、最も望まれていたドイツで失敗に終わったように、各国における反共勢力によって阻止され、所期の目的は達成されなかった。基礎理論の世界革命論も、1924年のレーニンの早世の後、後継者の座を得たスターリンによって事実上撤回され、ソ連限りでの一国社会主義論に転換されていくが、革命の余波はすでに多方面に及んでいた。

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