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近代革命の社会力学(連載第124回)

2020-07-08 | 〆近代革命の社会力学

十七 1917年ロシア革命

(11)ソヴィエトの形骸化とソヴィエト連邦の成立
 ボリシェヴィキ党が内戦・干渉戦への対処と同時並行で進めていたのが、ボリシェヴィキ党への権力集中である。それと反比例する形で、二月革命以来、労働者・兵士を主体とした革命的民衆会議として機能してきたソヴィエトの形骸化が計画的に進行していく。
 その点、レーニンは1918年1月のクーデターに際して、「ソヴィエト共和国」は、通常のブルジョワ共和国よりも高度な民主主義制度の形態であり、また社会主義への最も苦痛の少ない移行を保障できる唯一の形態であるとして、ソヴィエトのほうが制憲会議に優先するとの論理で、選挙された制憲会議を強制解散する措置を正当化していたことは、前に見た。
 この論理で行けば、新体制において「高度な民主主義制度」の中核となるのは、民衆会議=ソヴィエトのはずであった。ところが、内戦・干渉戦の間にボリシェヴィキが逐次進めていたのは、ソヴィエトの形骸化という反対のことであった。
 元来、ソヴィエトは政党ベースの議会制度とは異なるとはいえ、ボリシェヴィキ党と同じ社会民主労働者党から分かれたメンシェヴィキ党が優位に立つ構造であったが、ブルジョワ民主主義の過程を飛ばした労農民主革命というボリシェヴィキの革命論に批判的で、十月革命に参加しなかったメンシェヴィキ党はソヴィエトでの力を喪失していた。
 ボリシェヴィキ党は1918年6月に、メンシェヴィキ党と社会革命党をソヴィエトから排除したうえ、7月上旬には新憲法制定を急いだ。この十月革命後最初の憲法では、全ロシア・ソヴィエトが最高機関と位置づけられ、レーニンを議長とする新政府・人民委員会議もソヴィエトに対して責任を負うと規定された。
 こうしてソヴィエトを中核とする新しい制度が創設されたことになるが、憲法の規定とは裏腹に、ソヴィエトはすでに他党を排除していたボリシェヴィキ党の翼賛機関になろうとしていた。こうした流れに最も強く反発したのは、十月革命を共にした左翼社会革命党であった。
 同党は、新憲法案が審議されていた第5回全ロシア・ソヴィエト大会の期間中、ボリシェヴィキ政権が進める対独講和の要だったドイツ大使を暗殺し、反乱を起こした。しかし、これは直ちに鎮圧され、かえって弾圧の口実とされた。同年8月には社会革命党女性党員によるレーニン暗殺未遂事件をきっかけに、レーニンは「赤色テロ」を宣言し、反ボリシェヴィキ派への弾圧作戦に乗り出していくのであった。
 この弾圧作戦の対象は広範囲にわたり、旧帝政支持者はもちろん、メンシェヴィキ党や社会革命党など、かつては行動を共にした諸派にもまんべんなく及んだ。先行して設置されていた非常委員会が、この大弾圧作戦の実行機関として、令状なしの拘束や超法規的処刑のような苛烈な手段を用いて稼働した。
 こうした「赤色テロ」の恐怖政治は、まさにフランス革命当時の恐怖政治の再現か、それ以上のものであり、師プレハーノフが予言したとおり、レーニンがロベスピエールと重なったのであった。しかし、ロベスピエールと異なったのは、レーニンが決して失権しなかったことである。
 ボリシェヴィキ党は、内戦渦中の1919年には共産党と改称し、他党を排除する一党独裁政党としての性格を濃厚にした。そのうえで、内戦・干渉戦を終始優位に戦い、1920年までには収束させることに成功した。犠牲も大きかったが、内戦を必要以上に長期化させなかったことは、共産党支配体制の基盤を固める決定因となった。
 1922年には、旧帝政時代の版図に属したロシア周辺地域における三つのボリシェヴィキ系革命政権と合併したうえ、「ソヴィエト社会主義共和国連邦」を名乗る新国家が成立した。中核的な政治制度ソヴィエトの名称を国名に冠するという稀有の事例であったが、ここには初めから大きな自己矛盾が内包されていた。
 すなわち、ソヴィエトが形骸化した先に、ソヴィエト連邦が誕生したのである。憲法上、そして国名上も最高機関とされるソヴィエトは、ソヴィエト連邦成立時から独裁党である共産党指導部―当時は圧倒的にレーニンの個人官房と化していた―の決定を追認する翼賛機関の性格しか持たなかった。

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