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近代革命の社会力学(連載第122回)

2020-07-03 | 〆近代革命の社会力学

十七 1917年ロシア革命

(9)前皇帝一家虐殺への力学
 1918年1月のクーデターにより改めて作り出されたボリシェヴィキ党体制は、クーデター体制にふさわしく抑圧的であった。政権はすでに十月革命直後の前年12月にはソ連の悪名高い秘密諜報警察機関KGB(国家保安委員会)の前身となるチェ・カー(非常委員会)を創設して、反体制派狩りの準備を整えていた。そして、クーデター後の1918年4月3日には、結社登録制、検閲、集会許可制などの言論統制を定める布告も発した。
 かつてはレーニンの師と言うべき存在ながら、十月革命に幻滅し、レーニンの反対者となった経済学者ゲオルギー・プレハーノフは、未来のレーニンについて、「ああいうパン粉からロベスピエールみたいな人物が作られるのだ」と評したことがあったが、事実、革命的独裁の信奉者であったレーニンはロベスピエールとなり、恐怖政治を敷こうとしていた。
 正式名称を「反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会」といったチェ・カーの創設も、そうした趣旨から、十月革命に寄与したペトログラード軍事革命委員会を清算・改組して作り出した恐怖政治のマシンと言えるものであった。
 このような強権的な保安機関が必要であったのも、発足間もないボリシェヴィキ党体制の基盤が弱いことの表れであった。実際、1918年5月には、第一次大戦中、敵国オーストリア‐ハンガリー帝国からのチェコ人捕虜を逆利用して結成していたシベリアのチェコ人軍団の反乱を奇禍として、革命の波及を恐れる列強からの武力干渉があった。
 一方、レーニン政権は発足直後の最大懸案事項であった大戦の処理に関して、ドイツやオーストリアとの単独講和策に出たが、これに反対する左翼社会革命党が連立政権を離脱したうえ、18年6月には、前掲チェコ軍団が反乱占拠していたサマーラで、事実上の対抗政府となる憲法制定議会議員委員会を立ち上げた。
 こうした反ボリシェヴィキの内外包囲網に助長されて、逼塞していた帝政復古派が反革命軍(白軍)を各地で組織し始め、各個的ながら、反革命蜂起を開始した。1920年まで続く内戦の始まりである。
 ところで、レーニン政権にとって、もう一つの難題は、二月革命で失権した前皇帝ニコライ・ロマノフの処遇であった。前皇帝一家は大戦下、亡命先が見つからないまま、臨時政府によって軟禁状態に置かれていたが、ボリシェヴィキ党のクーデターの後、1918年4月にエカテリンブルグへ移送され、より厳重な拘束下に置かれていた。
 ボリシェヴィキ党としては、ロマノフ前皇帝を革命裁判にかけるという選択肢もあったが、内戦が本格化すると、前皇帝が白軍によって奪還され、復位する可能性を憂慮しなければならなくなった。
 とりわけ、ロマノフ一家の身柄が置かれたエカテリンブルグを管轄するウラル地区ソヴィエトは、エカテリンブルグが白軍の攻略目標となる脅威から、ロマノフ一家の処刑を主張するに至った。これに触発され、レーニンらソヴィエト中央執行委員会も早期処刑の内諾を与えたと見られる。
 しかし、こうした内部的やり取りは極秘に進められ、後に国家機密化されたため、詳細は今なお不明であるが、7月に入り、白軍の攻勢が強まる中、同月17日、ロマノフと前皇后アレクサンドラ他、未成年を含む5人の子供すべてが処刑された。
 もっとも、「処刑」とは名ばかりで、実質は裁判なしの一家殺害であり、その方法も銃殺、銃剣刺、殴打など残酷で、一家虐殺と呼ぶべきものであった。終了後、一家の遺体は焼却のうえ直ちに埋められ、白軍に特定されることを恐れて墓標も作られなかったため、長く埋葬場所も不明のままであった。そうした経緯から、末娘アナスタシアの生存説が流布され、僭称者が現れるなどの事後混乱もあった。
 一般に、革命で失権した前権力者は多くが生きたまま亡命を認められており、処刑されたのは17世紀英国革命や18世紀フランス革命など限られた事例にとどまる。両革命では前国王に対して、とりあえず裁判を行ったうえで処刑しているが、裁判なしに、一家全員の超法規的処刑=虐殺を行ったロシア革命は異例である。
 その点はロシア革命とその後のソヴィエト体制の苛烈な人権抑圧性を象徴するものとみなされ、ひいては革命全般に恐怖と冷血のイメージを植え付ける契機ともなったことは否めない。
 弁護の余地があるとすれば、大戦後の混乱と内戦の開始によって惹起された緊迫した力学状況が革命政権を過度にナーバスにし、皇帝一家の抹殺という行動に走らせたと見ることはできるだろう。戦略として見るなら、皇帝一家の早期抹殺は王政復古派にとっての最大のシンボルを除去し、その大義と士気を内戦初期段階で挫くことによって、最終的に内戦に勝利する鍵となったことも事実である。

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