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「自己責任」は死語に

2017-04-06 | 時評

「自己責任」なる用語はいつ頃から普及し始めたのだろうか。少なくとも、昭和の時代にはほとんど聞いたことがない。おそらく市場主義・脱福祉国家主義に傾斜した小泉政権時代の頃だろう。それにしても、曖昧模糊として徘徊する怪語とも言うべき言葉で、外国語への翻訳はほぼ不能と思われる。

もっとも、self-responsibility という英語がないわけではないようだが、定義を明確にした文献資料は見当たらなかった。それどころか、日本語の「自己責任」(jikosekinin)の英訳説明用語としている例すらあり、相当に日本独自の用語と見える。

強いて英訳すればself-help、もっと砕けばDo it yourself.ということになろうか。少なくとも、会見で大臣の責任を追及した記者を罵倒した復興大臣閣下が原発避難者に向けた際の「自己責任」はこの意味に解釈できる。すなわち、避難指示によらず自主的に避難した者たちは今後の生活を自助でまかなえというわけである。

しかし、「自己責任」は海外の渡航危険地域に自主的に立ち入った邦人が現地武装勢力に拘束・殺害された場合にまで拡大適用されるようになっている。これは明らかに用語の乱用である。思えば、このような用語の乱用も小泉政権下でのイラク人質事件が初発であった。

そもそも「自己責任」という用語が持ち出される場面に共通しているのは、人を保護・救済すべき公的責任を縮小・放棄しようとする狙いのある場合である。原発避難者の場合も、説得力を欠く一方的な安全宣言により避難指示を解除したことをもって避難者救援策を打ち切ろうとする局面で飛び出した言葉である。

「自己責任」をそういうエクスキューズの公用言葉だと受け止めれば、合点がいく。そうとすれば、少なくとも一般社会ではこのような怪語は使用を止め、死語にしたほうがよい。そして、「自己責任」を振りかざす無責任な公職者に対しては、公職者としての「自己責任」を取って、次回選挙で去ってもらうことである。

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