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不具者の世界歴史(連載第12回)

2017-04-05 | 〆不具者の世界歴史

Ⅱ 悪魔化の時代

「乱心」の徳川プリンスたち
 前述したように、日本でも精神障碍を「狐憑き」とみなすようなある種の悪魔化が広がっていたが、中世以降には主として武家法で精神障碍者を仕置き(監禁)するという一種の慣習法が現れ、これが近世江戸時代になるとしばしば大名統制の手段としても利用されるようになる。
 すなわち「乱心」(これ自体は江戸後期の用語という)は幕府が藩主を強制的に交代させたり、藩を改易したりする際の手段となり、また藩のレベルでも家臣団による一種のクーデターである主君押込の理由とされるなど、「乱心」が政治的な含意を持ち始めたことも特徴的である。
 そうした事例として、ここではいずれも徳川家康の孫に当たる徳川プリンスでありながら、「乱心」し、地位を追われた三人の大名について取り上げる。
 まずは2代将軍徳川秀忠の三男で甲府藩主徳川忠長である。彼は幼少年期には秀才をもって知られ、両親の寵愛を独占し、後に3代将軍となる同母兄家光のライバルとなった。家臣団も二派に分かれて対立したが、最終的には家光の強力な乳母春日局の家康直訴により家光後継で決着を見た。
 結局、忠長は甲府を安堵され、甲府藩主に収まるが、次第に異常な粗暴性を見せ始める。具体的には、家臣や近侍者に対する理由なき数々の残酷な虐待・殺害行為であった。
 時の将軍家光は忠長を諌め、更生のチャンスを与えるも、結局行状は改まらず、蟄居、改易、最終的に幕命による自刃という運命をたどった。この一件には忠長をライバル視する兄家光による政治的排除という解釈もあるが、長幼序関係から言っても将軍後継問題は既に決着済みであることや、家光が更生のチャンスも与えていたことに鑑み、病名はともかく、忠長の「乱心」は事実であったのだろう。
 次は、家康の次女督姫を母に持つ赤穂藩主池田輝興である。母方から家康の孫に当たる彼も元は聡明な英君であり、前領地の播磨平福でも、移封された赤穂でも政治手腕を発揮している。特に赤穂では先駆的な水道整備に尽力して名を残した。
 にもかかわらず、1645年突然発病し、正室ほか侍女ら奥女性ばかりを理由なく斬り殺すという行為に出て、わずか5日後に改易処分が下されたのである。結果として赤穂藩は後に赤穂浪士事件の元を作った浅野氏に渡ることになる。
 最後に、家康の次男結城秀康の長男松平忠直である。彼は父が安堵されていた福井藩主を若くして継いだが、藩主としての統治能力には欠け、重臣らの権力闘争を抑え切れず、1612年から翌年にかけて、いわゆる越前騒動を起こしている。
 しかし部将としては手腕を発揮し、大坂夏の陣では名将真田幸村を討ち取り、大坂城一番乗りの軍功を上げるも、論功行賞が芳しくなかったことへの不満から、反幕的態度に転じ、ついには叔父の将軍秀忠の娘でもあった正室勝姫の殺害を企てて失敗すると、今度は家臣を理由なく成敗するなどの粗暴性を見せるようになった。
 しかし、秀忠は忠直を改易とはせず、隠居を命じたうえ、九州の豊後府内藩預かりとする比較的穏便な処分を下した。論功行賞に不満を持った甥への同情もあった可能性があるが、家康直系御家門の福井藩を取り潰すことへの躊躇いもあったのだろう。
 ちなみに福井藩主の「乱心」事例はこれで終わらず、第6代松平綱昌も「乱心」で地位を追われている。彼は上記忠直の弟の子孫で、家康のやしゃごに当たる人物であった。彼もまた藩政が混乱する中、叔父から藩主を継いで間もなく、家臣を理由なく殺害するような粗暴さを見せたため、江戸に蟄居処分となった。ここでも福井藩の格式から、忠直の前例に従い、藩は改易されなかった。
 このように大名の「乱心」事例は家臣や家族など周辺者への突然の理由なき殺人という過激な暴力的形態を取ることが多く、武士の行動心理を含め、その正確な病態や病名に関しては精神病跡学的な検証の余地が残されているだろう。

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