第2章 初期労働党の成功
3:マクドナルド政権
1922年総選挙で初めて100議席を突破した労働党は、続く23年総選挙では191議席に伸ばした。保護貿易か自由貿易かが主要争点となった23年総選挙では保護貿易を主張した保守党に対し、労働党は自由貿易を主張した。結果、保守党は議会多数党の地位を失ったことで、翌年、ついに労働党に組閣の大命が下った。
こうして党首に復帰していたマクドナルドを首班とする史上初の労働党内閣が発足した。しかし、議席数では衆議院の三分の一にも届かない超少数内閣であったため、自由党の閣外協力を得ながらも法案成立には苦慮し、本来の社会主義的施策の実現は望めず、唯一の成果は自治体に低所得者向け賃貸住宅建設の補助金を出す住宅法くらいのものであった。ただ、外交面では第一次大戦の敗戦国ドイツの賠償責任を軽減するドーズプランの受け入れをフランス政府に飲ませるという重要な成果も上げている。
超少数内閣では長期政権は望めなかったとはいえ、マクドナルド内閣は左翼雑誌上で内乱を扇動した疑いを持たれた共産主義者キャンベルの起訴取り下げを決定したことで、議会の信任を失い、わずか9か月で総辞職に追い込まれた。続く総選挙では保守党が地滑り的勝利を収めて政権に復帰した。労働党は得票率では前回選挙を上回ったものの、40議席減らす後退となった。
しかし次の29年総選挙で労働党は287議席を獲得し、初めて議会第一党に躍進する大勝利となった。この選挙は女性も含めた普通選挙制の下で行なわれた史上初の選挙でもあった。そのため、再び政権に復帰したマクドナルド首相は英国史上初めての女性大臣を任命するなど、1929年は英国女性にとって記念すべき年となった。
議会第一党とはいえ、自由党がいくらか盛り返したことで、今度もまた議会多数派を握ることのできなかった第二次マクドナルド内閣は、不運なことに政権発足早々アメリカ初の世界大恐慌にも見舞われることになった。与党内は財政削減をめぐって紛糾し、急速に悪化する雇用情勢に有効な対策を示せなかった。
そうした中、マクドナルド首相は31年、保守党・自由党も含めた挙国一致内閣の樹立に踏み切るが、これをめぐり労働党内は分裂、マクドナルド首相らが除名されるという異常事態となる中、首相は分派を形成して総選挙に臨み、労働党にとって初の分裂選挙となった。
結果、挙国一致内閣は総体として勝利したものの、労働党は200議席以上も減らし、わずか46議席にとどまる壊滅的惨敗となった。それでも政権としては「勝利」したマクドナルドは、引き続き35年まで挙国一致内閣の首相を務めるが、主導権は多数党の保守党に握られた。
4:周辺左派政党との関係
初期労働党はこうして二度にわたる政権を経験しながらも、31年総選挙で壊滅的な敗北を経験するが、総合的に評価すれば正式の結党から25年ほどの新興政党としては十分に成功したと言えるだろう。
成功の積極的な要因として、非教条主義的で、自由貿易のような非左派的な主張も辞さず、危機に際しては反対党の保守党とも組む柔軟性があった。こうした柔軟路線を実務面で指導したのが二度にわたり首相を務めたマクドナルドであったが、その柔軟すぎる政治姿勢は党内からもしばしば裏切り者呼ばわりされるほどであった。
しかし、そればかりでなく、労働党は他国の類似政党のように共産党と母体を共有せず、共産党とは初めから別個政党として先行的に設立・発展したことから、英国では共産党が伸びず、左派票を共産党と奪い合うことがなかったという消極的要因も大きい。
英国共産党は労働党より遅れて1920年にコミンテルンの影響下に結成され、22年総選挙では1議席を獲得したが、同党はコミンテルン方針に従い労働党との連携を拒否していたため、両党間で選挙協力が行なわれることはなかった。ただ、第一次マクドナルド内閣の命取りとなったキャンベル事件が露呈したように、党内には共産党シンパも伏在していたと見られ、キャンベル起訴の取り下げもそうした党内からの圧力を受けてのことであった。
しかし、マクドナルド首相ら党指導部はモスクワの影響力が浸透することを恐れ、共産主義とは明確な一線を画し、キャンベル事件後は意識的に党の穏健化を進めた。そのため、下野中の26年に起きたゼネスト―多くの共産党員が支持した―にも反対した。
一方で、労働党は1927年以来、協同組合党と選挙協力関係を結んでいる。協同組合党は英国独自の政党で、共産党とは全く異なり、様々な協同組合組織が結集して1917年に結党された中道左派政党であり、元来労働党とも近い位置にあった。
同党は当初、独自に候補者を立てたが、18年総選挙で初めて当選者を出して以来、労働党の支援を受ける左派系小政党として伸び、27年の正式の選挙協力協定以来、実質上労働党の傘下政党に近い立場で確立されていく。