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英国労働党史(連載第6回)

2014-09-16 | 〆英国労働党史

第3章 英国式半社会主義

1:第二次大戦と労働党
 1931年総選挙では労働党のマクドナルド首相率いる挙国一致内閣が支持されたものの、労働党は結党以来の惨敗に終わった。閣僚経験者の多くも落選の憂き目を見て、この後35年まで続くマクドナルド内閣は、第一党保守党が主導するものとなる。
 翌年32年には党内会派的な形で残存していた労働党源流政党である独立労働党と労働党執行部の確執が極まり、同党が離脱してまさに「独立」していくなど、党にとっては分裂の危機が訪れたが、35年総選挙が危機を救った。折から増大する失業対策が経済面での重要争点となったことで、労働党への支持が戻ったためと見られる。
 時の党首は後に首相となり、英国で半社会主義の実験を展開するクレメント・アトリーであったが、彼はこの時点では暫定的な党首にすぎないと見られていた。ともあれ、35年総選挙で労働党は154議席を回復し、V字回復したのである。
 この後、第二次大戦中は総選挙が行なわれず、45年まで10年間にわたり、保守党主導の挙国一致戦時内閣が継続される。この間、労働党は連立与党の一角を占め続け、42年にはアトリーが時のチャーチル内閣に新設された副首相として入閣している。これは、戦争が深まる中、チャーチル首相が戦争指導に専念できるよう、アトリー副首相が内政面を統括する狙いによるものであった。
 かくして、第二次大戦中の労働党は、形の上では「野党」でありながら、保守党との連立政権を通じて、国政運営の要諦を学んでいったのである。その反面、労働党は保守化を免れず、特に戦争政策では従来の平和志向的な姿勢を転換し、保守党のチェンバレン首相の宥和政策を批判し、積極的な戦争支持に回るなど、時に保守党よりも保守的な姿勢をも示すのだった。
 1930年に離党して、英国ファシスト同盟を結成するに至った准男爵オズワルド・モーズレー卿は、こうした保守化した時期の労働党の逸脱的な副産物であった。

2:アトリー時代の始まり
 上述のとおり、第二次大戦期の労働党を率いたのはアトリーであったが、彼は当初暫定的と見られた予想を超え、35年の就任から大戦をはさんで20年にわたって党首を務め、初期労働党を率いたマクドナルドに続く戦時・戦後の労働党の指導者として、大きな足跡を残した。
 アトリーは中流の事務弁護士の家庭に生まれ、自らもオックスフォード大学出身の法廷弁護士であった。ただ、彼はブルジョワや企業の弁護士とはならず、最初の仕事はロンドンでも貧しいイーストエンド地区の労働者階級の子どもを支援する団体の職員であった。この経験が元来は保守的だったアトリーの価値観を変え、社会主義への関心を深めたとされる。アトリーは08年、労働党に入党し、地方活動家となる。
 その後は研究者や行政官などを歴任し、第一次大戦への従軍後、ロンドンでも最貧困地区の区長を経て、22年総選挙で下院議員に当選、以後国政で活躍する。国政では初期労働党のリーダーだったマクドナルドの支持者として、マクドナルド政権でも有力なポストに就いた。
 しかし、彼が党指導部の前面に出てくるのは、35年に時のランズベリー党首が辞任した時であった。ランズベリーは31年総選挙で党が大敗した後、党再建に取り組んでいたが、確信的な平和主義者であり、ファシストイタリアやナチスドイツ、軍国日本の侵略行動が進み、戦争の足音が高まる中、党内からも異論に直面し、辞任を決意したのだった。
 後任には労組系有力者が選出されるものとの予想に反し、非労組系で弁護士という労働党では異色の経歴を持つアトリーが選出されたのであった。実際のところ、アトリーもかつては平和主義者であったが、この頃には立場を主戦論に変えていた。
 こうして、党内傍流から党首に就いたアトリーは、チャーチル戦時内閣をナンバー2として支え、特に内政面で手堅い行政手腕を見せたことで、戦後首相へ昇る足場を得たのであった。

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