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世界共産党史(連載第18回)

2014-08-04 | 〆世界共産党史

第9章 ソ連邦解体後の共産党

1:社民主義的転換の波
 世界の共産党総本山であったソ連共産党が指導するソ連は1980年代、大きな壁にぶつかる。巨大化した党組織は官僚主義を極め、一個のメガ官庁のようなものになっていた。一党独裁下で党に利権が集中し、党幹部の汚職が蔓延、自慢の計画経済も官僚主義に染まり、機能不全に陥っていた。
 80年代後半から、ゴルバチョフ書記長の下で大規模な改革「ペレストロイカ」が実施され、限定的な市場経済原理の導入、最終的には党の指導性の否定にまで行き着くが、すべてが中途半端に終わり、成功しなかった。
 89年には、ソ連の衛星国東ドイツで非武装革命が成功し、冷戦の象徴であった東西ドイツを隔てる「ベルリンの壁」が開かれ、東ドイツ国家が消滅した。他の東欧衛星諸国にも同種の革命が波及していく中、ソ連では91年8月、ペレストロイカに反発する党内保守派がゴルバチョフの追放を狙って起こしたクーデターが急進改革派と市民の抵抗で失敗に終わったのを機に、同年末、ソ連邦が解体、それに伴いソ連共産党の命脈も尽きた。
 こうして共産党総本山が突然消滅したことの影響は大きく、他国の共産党または他名称共産党の多くも従来のマルクス‐レーニン主義を放棄し、改めて社会民主主義への転換を図り、党名変更する潮流が生じた。
 一方、一足早く社民主義的転換を図っていたユーロコミュニズムの旗手イタリア共産党は、ソ連共産党解体に先立つ91年2月、党名を左翼民主党に改称し、明確に共産主義と決別した。そして中道保守勢力との連合を経て、2007年には中道左派・民主党に再編された。
 こうした社民主義的転換を明示しない共産党にあっても、ソ連邦解体後は革命路線を放棄し、議会政治への参加を主要な活動とすることで、資本主義体制に順応していく傾向が顕著に見られる。
 そうした中、93年にソ連共産党の後継政党として再建されたロシア連邦共産党は独自の路線を歩んできた。同党はマルクス‐レーニン主義をなお放棄することなく、社会主義の復活をあえて綱領に掲げ、議会選挙を通じて党勢回復を図ってきた。その結果、95年から03年までは下院第一党の座を確保した。その後プーチン大統領率いる愛国保守政党の台頭により低落、政権獲得の可能性は乏しいものの、有力な野党であり続けている。

2:開発独裁党路線
 ソ連邦解体後の共産党(名目共産党を含む)のもう一つの身の振り方として、開発独裁党路線がある。その代表的モデルが中国共産党の「社会主義市場経済」である。
 中国共産党内では、すでに中ソ対立でソ連離れを来たしていた60年代から資本主義的モチーフを伴った経済改革を志向するグループが見られたが、文化大革命はこうした流派(走資派)に反発した最高指導者毛沢東をはじめとする保守派の反撃という一面があった。
 しかし、毛没後の70年代末、文化大革命後の国家再建過程で復権し、最高実力者として台頭した旧走資派トウ小平を中心に、市場経済原理を積極導入する経済開発に本格着手した。この路線はソ連邦解体後、いっそう明瞭になり、共産主義を事実上棚上げして、資本主義的経済発展を目指す方向を突き進んでいる。言わば「共産党が指導する資本主義」である。
 同様の路線は、共産党ないし他名称共産党が一党支配を維持している東南アジアのベトナムやラオス、アフリカのアンゴラやモザンビークといった諸国でも程度の差はあれ、採用されている。
 一方、アメリカ地域で唯一一党支配体制を維持するキューバ共産党は、革命指導者カストロの長期執権下でソ連モデルを忠実に維持していたが、2011年のカストロ引退後、遅ればせながら市場経済原理の導入を図り始めている。ただカストロ存命中の現時点ではその歩みはなお慎重に見え、世界で最も保守的な統治共産党となっている。

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