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大怨和すれば、余怨あり

2014-08-02 | 時評

正確には、「大怨和すれば、必ず余怨あり」という。中国の古典『老子』の言葉である(拙稿参照)。すなわち、宿怨を和解させると、かえって恨みは残ってしまうというのだ。今、この箴言が最も当てはまる国際紛争は、イスラエル‐パレスチナ紛争である。

出口の見えない根深い紛争の始まりは、ノルウェー政府が仲介した93年の歴史的な「オスロ合意」だった。ここでパレスチナ暫定自治の枠組みが合意され、歴史的な和解と賞賛されたが、和解のイスラエル側当事者だったラビン首相は2年後にイスラエル極右に暗殺され、パレスチナ側当事者のアラファトPLO議長も04年、イスラエル軍による攻囲の中、病死(毒殺説もくすぶる)。

今や、双方で合意に反感を持つ宗教右派が台頭し、もはやオスロ合意は紙切れである。両者は互いの強硬さを自己の強硬戦術の根拠として利用し合う敵対的共犯者関係に陥っている。現今の対立は、まさしく和解の「余怨」である。

これ以上、和解を試みても、ますます「余怨」は深まるばかりである。国際社会も和解によるパレスチナ紛争の解決は不能と認め、手を引いたほうが懸命である。紛争の解決は対立当事者自身に委ねることである。

だが、それでは殺し合いになってしまうという懸念があり、人道的感情がおさまらないかもしれない。しかし、互いが互いの存在を認めない紛争は、どちらかがどちらかを殲滅しない限り、終局しない。となると、軍事力で圧倒的なイスラエルがパレスチナを殲滅する結果になりかねない。

だが、突き放されたほうが、かえって対立当事者同士で落としどころを探ろうとする可能性もある。現状は、双方とも国際社会の調停に甘え、あわよくば調停を介して我が方に有利なポイントを獲得しようという算段も垣間見える。

元来、国家という排他的な枠組みを維持したまま、イスラエルとパレスチナが一つ所で平和共存するということ自体無理なのであるから、国際社会も問題を解決できるかのようなふりをするのはやめたほうがよい。本気で問題解決を目指すなら、国家という枠組みそのものを根底から疑うべし。

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