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共産論(連載第4回)

2019-01-14 | 〆共産論[増訂版]

第1章 資本主義の限界

(2)資本主義は暴走していない

グローバル資本主義の実像
 1991年のソ連邦解体以降、全世界に拡散した資本主義―グローバル資本主義―は、それ以前の資本主義とは質的に異なる面を示し始めているように見える。
 すなわちグローバル資本主義は経済的自由を拡大するための規制緩和と民営化(営利資本化)、労働法制の規制緩和を通じた労働市場の弾力化、財政均衡を重視した社会保障費抑制策等々のいわゆる新自由主義の綱領を公然と掲げて各国政府にその実行を迫るようになってきた。
 こうした状況を指して「資本主義の暴走」と非難されることもある。この非難は資本主義総本山・米国の金融危機を契機に勃発した2008年世界同時不況を契機に強まった。資本主義は集産主義に対する「勝利」に酔って、暴走的乱痴気騒ぎを引き起こしたのであろうか。
 一つにはそういう面もなくはなかろう。資本主義は、東西冷戦時代には自らを社会主義や共産主義等々の「イデオロギー」とは無縁の合理的な経済システムであると宣伝していた。ところが旧ソ連の集産主義に対する「勝利」以来、資本主義が自らをまさしくイデオロギーとして絶対化し始め、「資本主義以外に道なし」と言わんばかりの教理として自己展開するようになったのだ。そうした資本主義の原理主義化の現れが新自由主義であるとも言える。
 その新自由主義のイデオロギー的側面が最も如実に表れているのが、資本企業(株式会社企業)の従業員である労働者への賃金分配よりも、企業の法的な所有者である株主への利益配当を重視すべきだとする株主至上主義の公理である。
 しかし、そればかりではない。元来、資本主義は自由放任の競争経済を志向する内的傾向を持っているが、このような資本主義本来の傾向性が、ソ連邦解体以降、旧ソ連の従属下にあった東欧諸国のほか、中国そしてインドといった新興諸国も本格参戦しての国際的な資本主義大競争が展開されていく中で、一つの歴史的反作用(反動)として再現前してきたと言える。
 従って、いわゆる新自由主義と呼ばれる潮流にも、イデオロギーとしての側面と同時に、資本主義本来の傾向性に照応した経済戦略としての側面とがあると言える。
 後者の側面を大胆に単純化して言えば、先発資本主義諸国が、おおむねソ連邦解体後に台頭・参入してきた後発資本主義諸国に対抗していくための戦術マニュアル―それは先発国の後を追う新興国自身にも適用される―こそ新自由主義の綱領なのだ。
 こうした新自由主義戦略も、1990年代半ば頃から世紀をまたいですでに四半世紀近い歴史を刻んでいるので、そろそろ「新」の形容を外し、資本企業の経済活動の自由を至上価値として最優先せんとするその実態に即して「資本至上主義」と改称すべき時期であろう。

「資本主義暴走論」の陥穽
 以上のようにみるならば、グローバル資本主義の展開を「暴走」という言葉でくくるのはいささか問題である。資本主義の「暴走」を強調する論者は、我々が現在見せられているようなものとはもっと別の、言わば「人間の顔をした資本主義」が存在し得るのだと信じたがっているように見える。
 おそらくそこで想定されているのは、先に述べたような労働者階級の生活にも配慮する修正された資本主義の姿なのであろう。それはたしかに冷戦期の資本主義の一つの姿ではあった。しかし修正された資本主義とは、資本主義が革命の脅威をまだ現実に感じていた頃に自己防衛策として取っていた、言わば厚化粧した資本主義の姿であったのだ。今、状況が変わり、厚化粧の必要がなくなったと認識した資本主義は、その素顔―貨幣の顔―をさらし始めたのである。
 このような現実を直視することなしに、厚化粧していた頃の資本主義へのノスタルジーに浸っているとかえって陥穽に落ち込むことがある。その重大な例が労働市場の規制緩和問題である。
 資本至上主義のプログラムとして実行されてきた労働法制の規制緩和、とりわけ派遣労働などのいわゆる非正規労働の拡大が労働者間の所得格差を拡大し、貧困をも招いているとして、再び労働者の地位を安定化させるために規制を再強化せよとの―それとしては正論的な―主張がある。
 しかし、資本企業が人件費を節約すること、すなわち「搾取」することは資本企業経営のまさに要諦であるところ、その要求に対応する最も端的な策が労働法規制の緩和であるが、この規制を再強化するならば、資本企業としてはさしあたり労働力の正規化・準正規化を進めつつ、労働者数を絞り込む戦術に出るであろう。それは当然にも高失業の定在化をもたらすが、このようなことはかねて非正規雇用に対する規制の強い諸国では実際に起きてきたことである。
 そればかりでなく、経済界は非正規雇用規制強化の法的代償として、正規労働者の労働基準、特に解雇規制条項の緩和を要求し、それが受け入れられなければ資本企業としては労働法規制が甘く、賃金水準の低い海外へ生産拠点を移す国内産業空洞化作戦に出るであろう。
 いずれにせよ、労働市場の規制強化は雇用創出という観点からは逆効果の危険を孕んでいる。それを考えると、資本至上主義を道義的にのみ非難し、その撤回を要求する修正資本主義の考え方は、資本主義の本性を甘く見積もりすぎているように思えてならない。資本主義をソ連邦解体以前の冷戦期の懐かしい姿に押し戻そうとするような歴史の歯車の逆回転は不可能なのである。


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