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共産論(連載第1回)

2019-01-03 | 〆共産論[増訂版]

増訂版まえがき

 当連載増訂版は、2016年から17年にかけて連載した改訂第二版を踏まえ、その後の筆者の考えの進展を反映した最新版である。とりわけ教育制度について扱った第6章、新しい革命運動及びそのプロセスについて扱った第8章及び第9章では、重要な改訂が加えられる。
 その余の部分に関しても、必要に応じて表現や用語が訂正・補充等された結果、ページ数が増えたことから、増訂版となったが、大筋では改訂第二版を踏まえているため、以下、参考までに改訂第二版まえがきを再掲することにする。

改訂第二版まえがき

 
2011年に開始した『共産論』の初版から数えて今回で計三度目の連載となる。この間、2008年に世界を襲った同時不況は大恐慌への突入を回避し、資本主義経済はさしあたり破局を免れたかに見えるが、その後も安定成長軌道に乗ったとは言えず、一国の政治経済情勢が世界経済動向に波及する不安定な状態が続いている。
 すでに爛熟状態の資本主義先発国経済の成長が限界を示す中、「社会主義市場経済」の道を驀進してきた頼みの中国を筆頭とする新興国経済の成長が鈍化してきており、市場経済総体が限界に直面している。そうした大状況の中、先発諸国においても生活難―豊かさの中の貧困―の現象が広がりを見せる一方で、世界の富のおよそ半分が1パーセントの富豪に集中するという前近代・封建時代でも見られなかったような天文学的スケールでの富の偏在も広がっている。
 それに加えて、これまで国民を保護するとしてきた国家の機能がいまだかつてないほど不全化し、難民として流出する人は戦後最多を記録、国家の機能がなお比較的維持されている諸国においても、積年の財政難や国内経済の成長鈍化、世界経済の不安定化に対応して緊縮財政に走り、生活を支える社会サービスの縮減が全般的な傾向となっている。
 改訂第2版はそのような政治経済状況下での連載となるが、初版以来の全体の基本線に大きな変更はない。ただし、司法論(第4章)と教育論(第6章)に関しては、この間に生じた筆者の考えの進展を反映して、相当な記述の改訂が加えられるであろう。その他、細かな点での記述・用語の補訂・加筆が行なわれる予定である。

 

序文

 共産主義とは何か。
 この言葉にまつわる一切の偏見も過去の教条も捨てつつ、おおまかにとらえれば、それは貨幣と国家のない世界をめざす革命的プロジェクトであると言える。
 こう聞けば、原始社会へ逆戻りするのか?!とおおかたの人は驚かれるかもしれない。それに対する答えは半分イエス、半分ノーである。
たしかに、貨幣も国家もない状態は人類的な原点回帰である。しかし本連載が提示しようとする共産主義とは文明のない原始共産主義ではなく、文明化された「現代的/未来的共産主義」である。
 同時に、それは資本主義的文明化の到達点である工業化・情報化の歪みを根底から矯正し、生態学的に持続可能で、人々の生活にあまねく資するようなものに変革していくことを目指すプロジェクトなのである。
 それでも、と問われるかもしれない。貨幣も国家もないのでは我々はいったいどのようにして生きていけるのだろうか、と。しかし、生活に即してリアルに考えてみたい。
 もしあなたが何をしようにも頭金=資本を必要とする世界―これが資本主義の最も簡潔な定義である―の中で、日々のやりくりに苦労している生活者ならば、貨幣なしに必要な物やサービスが取得できたらどんなによいことかとは思わないであろうか。
 またあなたが税金を収奪する国家に巣食う政治家や役人に苦しめられ、あるいはうんざりしている国民であれば、国家なる伏魔殿が消えてなくなってくれればどんなによいことかとは思わないだろうか。
 否、自分は人一倍の努力をし高収入を稼ぎ、高額の資産を保有しているので資本主義で結構という方もおられよう。それは立派なことであるが、しかし大規模な経済危機や突発的に生じた不幸な個人的事情から全収入・資産を失ってしまったら?そういう時こそ、国家の生活保護が頼りであるから、やはり国家は必要なのか?しかし、国家も財政破綻して財源が底をついてしまったら?
 このように考えていくと、資本主義経済とは富者にとっても「不安の経済」だと言えないであろうか。
 それはわかるが、共産主義の総本山ソヴィエト連邦の解体・消滅(1991年)によって「共産主義の失敗」は実証済みのはずであり、どんなに苦しくとも市場経済・資本主義以外に最適な道はないのではないか、というある種の諦念も世界をなお覆っているように見える。
 しかし、2008年の世界大不況、そしてその後の先行き楽観を許さない不安定で予測不能な世界経済情勢、さらに資本主義のグローバル化に伴ってますます悪化する地球環境は、資本主義の限界をはっきりと露呈させる事象ではないだろうか。
 そうした問題意識を持ちながら、まずは先入観なしに筆者と共に「現代的共産主義」の可能性を探求する旅に出ていただけたら幸いである。

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