ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

農民の世界歴史(連載第29回)

2017-01-24 | 〆農民の世界歴史

第8章 社会主義革命と農民

(2)農奴解放後のロシア農村

 ロシアでは皇帝自身が主導した1861年農奴解放令により、法的には農奴制が廃止され、農民は農村共同体にまとめられたが、この共同体は自治的な形を取りつつ、農民を貧困な農村に束縛する結果を作り出したのだった。
 農民の生活は所によっては農奴時代よりも苦しくなり、プロレタリア化したかれらは再び一揆を起こすようになった。そうした中、ロシアではニコライ・チェルヌイシェフスキーが創始した一種の農民社会主義運動ナロードニキが隆起する。
 ナロードニキは農民の利益を擁護する「土地と自由」の理念に基づき、「ナロード(民衆)の中へ」をスローガンとし、資本主義的工業化で遅れを取るロシアにあって、資本主義段階を飛び越えた貧農を主体とする社会主義革命を夢想する運動であった。
 その際、革命の拠点となるのは農村共同体とされ、運動員は農村に入って革命情宣活動に当たった。しかし、ロシアにおいても農奴解放後の農民は保守的であり、社会主義運動は共感されず、かえって敵視され、余所者の運動員は迫害すらされた。当局もナロードニキを危険視し、弾圧した。
 そうした閉塞状況に直面し、過激化した一部分子は「民衆の意志」なる分派的秘密結社を結成し、「直接闘争」という名目で要人暗殺のテロ活動に走った。かれらは農民の間に残存する皇帝崇拝を革命の障害とみなし、皇帝の殺害排除が農民を覚醒させると短絡していた。
 その極点が1881年の皇帝アレクサンドル2世暗殺事件である。しかし、この事件により、農民らはいっそうナロードニキから距離を置くこととなり、一方、2世を継いだ息子アレクサンドル3世は父帝の施政を覆す反動政治を展開し、反体制運動に対する監視と弾圧を強める結果となる。
 それでも、ナロードニキはレーニンが登場する以前の近代ロシア社会主義運動の主流として、社会革命党の結成に結実するが、党は相変わらずテロリズム路線を放棄せず、数々の内外要人暗殺事件を引き起こした。
 当局の側でも拱手傍観していたわけではない。20世紀初頭には、ピョートル・ストルイピン首相が主導する一連の体制内改革の中で、ロシアでも一部で形成されてきていた自営農家の育成が積極的に支援され、こうした富農(クラーク)を農業の新たな主体として農村振興を図らんとした。しかし、この改革には農民層の強い反発があり、容易には進捗しなかった。
 他方、19世紀末になると、ロシアでも遅ればせながら資本主義的工業化の潮流が起き、社会は急速な変化を遂げ、労働者大衆の勃興とそれに伴う労働運動も発現してきたことにより、ナロードニキは社会民主労働者党のような新たなライバル勢力を得ることになる。
 そうした中で、ナロードニキ系社会革命党とやがてロシア革命の主導権を握るレーニンの社会民主労働者党主流派ボリシェヴィキは、帝政末期の革命運動の過程で、農民層の取り込みをめぐって政治的な綱引きを展開するようになる。


コメント    この記事についてブログを書く
« 農民の世界歴史(連載第28回) | トップ | 「壁」の時代再来 »

コメントを投稿