ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

農民の世界歴史(連載第31回)

2017-02-07 | 〆農民の世界歴史

第8章 社会主義革命と農民

(4)農業集団化と農村生活

 レーニン亡き後のソ連を継承したスターリン政権がネップ体制に代えて打ち出したのが、歴史上悪名高い農業集団化政策であった。その契機となったのは、1928年に生じた大規模な穀物流通の停滞であった。原因は農民たちの売り渋りにあった。
 政権は29年から30年にかけて全面的集団化と銘打った大々的な強権発動により、農地の接収と農業協同集団コルホーズへの強制加入が「自発性」の形を取った実質的な強制により断行された。当然にも、この迷惑千万な新政策に対して農民層は反発し、サボタージュで抵抗した。
 これに対して、政権は抵抗農民を反革命分子たる富農(クラーク)とみなし、「富農階級の絶滅」を大義名分にシベリア流刑や死刑を含む厳罰で臨んだ。こうした政策強行の結果、コルホーズ農場からの穀物調達量は漸次増加していったが、反面、農村は食糧難となり、30年代にはウクライナの穀倉地帯を中心に最大推定1000万人を越える犠牲を出した大飢饉が発生するなど、政策的副作用は反人道的な域に達していた。
 こうして抵抗の体力も奪われた農民にとって最後の手段はかつての農奴にならった集団逃亡であったが、これに対して政権はコルホーズ農民の移動の自由を制限する国内旅券制度で対抗した。これはまさに帝政ロシアが敷いていた農奴逃亡禁止策の社会主義版と言うべきものであった。
 こうして短期間で創設されたコルホーズでは厳しい作業ノルマが課せられ、生産物の自家消費や販売が禁止される代わりに、住宅付属地ではそれらが解禁されるという形で、ほとんど西洋中世の封建農地さながらの様相を呈した。
 このようにコルホーズを協同農場と付属地に分けて、付属地では税負担(農業税)を伴う市場取引を容認するという形で中途半端にネップ的な市場経済を存置したため、コルホーズの生産総力は伸び悩む一方、付属地でも重い税負担を回避して農民の生産意欲が減退するという二重の限界をさらした。
 他方、コルホーズとは別途、より大規模な国営農場ソフホーズも創設されたが、ソフホーズ農民は一個の労働者として各種年金が保障され、移動の自由も有しており、優遇されていた。しかしスターリン時代の農業集団化は取り急ぎコルホーズ中心に行なわれたため、ソフホーズは例外的であった。
 この構造が変化するのは、ソ連では「大祖国戦争」と呼ばれた第二次大戦後の1960年代である。コルホーズ制度の限界に直面していた当時のフルシチョフ政権は新たな農地開拓と機械化に対応するため、農業集団化政策の比重をソフホーズに移したのであった。その結果、ソフホーズの割合が増大し、ソ連末期の1990年には集団農場の半分近くがソフホーズで占められるに至っていた。
 他方、コルホーズ農民にも年金が保障され、移動の自由も解禁されるようになり、総体として農民の労働者化が進んだ。最低限度の生活保障はなされ、かつてのような飢饉の不安は解消されたとはいえ、農村の生活は都市部ほどに豊かでなく、農民の離農・都市部への移住の波が起き、農業生産は新たな限界に直面した。
 こうしてコルホーズ/ソフホーズは生産効率が低いまま、社会保障をまかなうためにも国庫からの融資や補助金で維持されたため、財政無規律の元凶としてソ連体制を構造的に蝕んでいった。
 今日では、旧ソ連の農業集団化政策は歴史的誤りとして否定されているが、それでも、コルホーズ/ソフホーズは経営規模の小さな家族農に依存した農業の限界を超え、かつ食糧農業資本による資本主義的集約化とも異なる大規模営農の実験的試みとしての意義はあったと言える。しかしその最終帰結は、言わば国家を主体とする大土地所有制に近いものであった。


コメント    この記事についてブログを書く
« 農民の世界歴史(連載第30回) | トップ | 異様な「蜜月」三角形 »

コメントを投稿