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農民の世界歴史(連載第28回)

2017-01-23 | 〆農民の世界歴史

第8章 社会主義革命と農民

(1)仏農民の政治的保守化

 19世紀半ば以降、欧州の資本主義諸国では程度の差はあれ、社会主義運動が派生・隆盛化していく。社会主義運動は基本的に労働者階級の利益を第一に考慮するものであったが、農民もこれと無縁ではあり得なかった。
 フランス革命によって農民が解放されたフランスでは、以前見たように、農民間での富農と貧農の階層分化が生じるとともに、農民層全般が政治的に保守化していた。零細と言えども「持てる者」の仲間入りを果たした農民は個人財産に敵対的な社会主義には共感できず、ブルジョワ保守政治の支持者となる。
 こうした傾向が如実に現れたのは、ルイ・フィリップ七月王政が革命により倒れた後、1848年4月に施行された制憲議会選挙である。この時、史上初の社会主義(連立)政権を惨敗させ、ブルジョワ共和派の勝利を導いた原動力の一つは、農民層の支持であった。これに対する労働者・社会主義者の蜂起(六月蜂起)は、あっさり鎮圧された。
 そして、年末の大統領選挙では皇帝ナポレオン1世の甥に当たるルイ・ナポレオンが当選したが、これにはやはり農民層の支持があった。元来、農民層はナポレオン政治の支持者でもあったが、これはコルシカ島の中流貴族から自力で成り上がった一族への共感にも支えられていたのだろう。
 大統領として幅広い支持を獲得したルイ・ナポレオンは52年、帝政を復活させ、ナポレオン3世として即位するという政治反動に出る。以後、70年に廃位に追い込まれるまでフランス第二帝政の時代が築かれることになる。第二帝政について批判的に分析したマルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』では、第二帝政と農民の関係について、鋭い表現でこう記されている。
 「ボナパルト王朝は、革命的農民でなく、保守的農民を代表しているのであり、その社会的生存条件である分割地所有を越えて押し進む農民でなく、むしろその守りを固めようとする農民を、都市と結びついた自身のエネルギーによって古い秩序を転覆しようとする農村民衆でなく、反対にこの古い秩序に鈍感に閉じこもり、自身の分割地ともども帝政の幽霊によって救われ、優遇されるのを見たいと思う農村民衆を代表しているのである」。
 70年の廃位は普仏戦争に敗れ、皇帝自らプロイセンの捕虜となったことを契機とするが、これに続いて翌年パリを中心に発生した民衆蜂起と革命自治政府の樹立は、史上初の社会主義革命と言える出来事であった。しかし、この「革命」は歴史上「パリ・コミューン」と称されるように、首都パリといくつかの地方都市限りの局地的な「革命」にとどまり、全土的な広がりを持たなかったために、わずか2か月で流血鎮圧され、失敗に終わった。
 マルクスは晩年の有名な著書『フランスの内乱』で、パリ・コミューンの挫折理由について多角的に分析しているが、農民との関わりでは、農村に形成されつつあった農村プロレタリアート(貧農に相当する)の取り込みに失敗したことも示唆している。
 かくして、パリ・コミューンの挫折は社会主義運動に農民層を参加させることの難しさを改めて実証し、以後、農奴解放後のロシアにその重心が移っていく社会主義運動において、農民との関係性が大きな課題となっていく。


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