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第3章 ヴィリエ=シュル=モラン
1928年2月、佐伯はパリから電車で1時間ほどの小さな村「ヴィリエ=シェル=モラン」に滞在し新たな造形を模索しました。
〈煉瓦焼〉 1928年 大阪中之島美術館蔵
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モランの村はずれにある煉瓦焼の窯。
〈サンタンス教会〉 1928年 三重県立美術館所蔵
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〈モランの寺〉1928年 大阪中之島美術館所蔵
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〈新聞屋〉 1927年 朝日新聞東京本社所蔵
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〈人形〉 1925年 大阪中之島美術館所蔵
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〈リュクサンプール公園〉 1927年 田辺市立美術館
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脇村義太郎氏コレクション
〈オプセルヴァトワール附近〉1927年 和歌山県立近代美術館
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〈裏町の広告〉1927年 京都国立近代美術館
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〈モランの寺〉 1928年 東京国立近代美術館所蔵
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〈郵便配達夫 半身〉1928年 大阪中之島美術館蔵
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(山本清雄氏寄贈)
〈郵便配達夫〉1928年 大阪中之島美術館蔵
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(山本清雄氏寄贈)
〈ロシアの少女〉 1928年 大阪中之島美術館
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(山本清雄氏寄贈)
〈黄色いレストラン〉1928年 大阪中之島美術館所蔵
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(山本清雄氏寄贈)
「黄色いレストラン」が屋外で描いた最後の作品で
佐伯祐三が「描きった。」と家族に説明していたそうです。
〈扉〉1928年 田辺市立美術館(脇村義太郎コレクション)
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展示場最後の作品は、この143番目の「扉」でした。
●佐伯祐三の作品を寄贈されている「山本清雄氏」は
山本發次郎氏の没後に美術品を継承した二男の山本清雄氏が1983年に大阪市へ墨蹟、染織および近代絵画作品約600点を寄贈し、これが近代美術館構想の契機となりました。
●山本發次郎氏
岡山県出身。旧姓名戸田清。大阪船場でメリヤス業を営む山本家の長女はなさんと結婚、婿養子に入る。
1920年家督を相続、山本發次郎を襲名。メリヤスおよび整髪事業のかたわら、1929年頃より美術品収集を始め、墨蹟、浮世絵、御宸翰、近代絵画、陶器、染織などを集める。
佐伯祐三作品の真価を見出したことで知られ、第二次世界大戦でコレクションの多くを失うも戦後事業を再興し収集を再開しました。
大阪中之島美術館より
佐伯祐三遺作展覧会 山本發次郎氏所蔵 1937年
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山本發次郎氏所蔵 佐伯祐三画集 1937年
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1930年協会第一同洋画展来会会場にて
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左より佐伯祐三、小島善太郎、里見勝蔵、木下孝則、前田寛治。
広徳寺にて(実家) 1927年
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前列左から佐伯祐三、ひとりおいて彌智子 米子、母タキ
後列左から3人目が兄 祐正
※大阪市・中津の光徳寺の住職一家の四男三女の次男
〈彌惠子像〉1923年 大阪中之島美術館(山本義太郎氏寄贈)
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彌智子(やえこ)1歳頃の姿を描く。
柔らかく暖かな色彩には、わが子を見つめる優しい視線がそのまま表現されているようである。
2歳を迎える前に両親とともに渡仏した彌智子は、フランス語を上手に話すようになり、佐伯の友人たちにも可愛がられ、パリで撮られた写真には必ずと言われるほど佐伯のそばに彌智子の姿がありました。しかし、佐伯が死去して約2週間後、父と同じ結核によりわずか6歳で生涯を閉じました。
〈米子像〉 1927年 三重県立美術館所蔵
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東京都・銀座の貿易商、池田嘉吉の次女として生まれる。
東京女学館を卒業後、はじめに川合玉堂に日本画を学ぶ。
1921年、東京美術学校の学生であった佐伯祐三と結婚。
家族で渡仏するが、翌年に夫祐三、娘の彌智子を相次いで亡くし、傷心のまま帰国。大正~昭和期の洋画家で、1947年女流画家協会の創立に発起人として参加。1949年二紀会委員に推挙。1967年第二十一回二紀展で文部大臣奨励賞を受賞。享年70歳。
ほとんどの作品が写真OKだったので長くなりましたが
全部はブログに残せませんので、代表作が一堂に集結した「大阪中之島美術館 佐伯祐三」は、これで終わります。
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