kenroのミニコミ

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和解には時間と犠牲が必要である  そして、私たちは愛に帰る

2009-06-27 | 映画
神は、山腹で息子を犠牲にするよう命じることで、アブラハムの信仰を試すことにした。そして、〈神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。(「創世記」22:9ー12)

アブラハムの信仰の崇高性が問われる緊迫のシーンである。絵画ではアルテピナコテークにあるレンブラントのそれが有名で、筆者もアルテにあるレンブラントのキリスト教をめぐる連作には感動したものだ。
イサクの犠牲。本家は信仰の篤さが問われる主題であるが、本作では親の子に対する愛、そして子の親に対する愛が、いかに説明しがたく、率直になれないものかをも表している。
トルコ移民のアリはブレーメンで年金暮らし。同じくトルコ移民の娼婦であるイェテルと一緒に暮らし始めるが、大学教授となった息子ネジャットにそんな父が疎ましい。イェテルの娘アイテンはイスタンブールで反政府活動に従事し、逃れて不法入国でハンブルクに至る。イエテンに惹かれ匿うドイツ人学生ロッテは母スザンヌと暮らす。ドイツへの政治亡命を申請するイエテンとスザンヌは諍う。
スザンヌ「(トルコの人権迫害状況も)EUに入れば状況が変わるわ」
イエテン「EUなんて信じられない。EUなんて、クソくらえ!」
スザンヌ「そんな言葉はやめて。自分の家じゃないのよ」
トルコに強制送還されたイエテンを助けようとイスタンブールに行くロッテは、命を落とし、イェテルを殴り殺してしまったアリは受刑後、トルコに強制送還される。イェテルへの償いから、娘を捜しにイスタンブールに来たネジャットはロッテに部屋を貸すことになり…。

複層的なストーリー展開はオムニバスではないけれど、すべてがつながり、最後は監督の意図する親子の和解へ。とはいってもネジャットとアリが和解したかどうかまでは描かれていない。
親子の和解物語と記したが、移民の問題、ドイツとトルコの壁(それはおそらく230万人という日本では考えられないくらいのトルコ移民を抱えているドイツ特有の問題)、イスラムではない西洋社会に根付いたゆえに見えるトルコ移民であってさまざまな因習にとらわれる移民社会の問題など数多く描いていて、和解の物語如何よりそういった一人ひとりの背景に重きを置いた描き方になっているのが、目を離せない逸品になっているように思える。
イェテルの娼婦業を咎めるトルコ移民、アリの下品な話題、あげくは「人殺し」にに堕してしまった父にうんざりする知識人のネジャット、イエテルを追いかけ、大学も放り出した娘に「自分で勝手にしなさい」と突き放すスザンヌ。誰もが、理解不能の親あるいは子を抱えている。でもそのうんざりの向こうにある愛は、失って始めて気づくもの。アリの無教養に教養主義で反抗するネジャットも、スザンヌの合理主義に感性で突き走るロッテも、母を本当は知らない理想主義のイエテルも自分が今あるのは親があるからだともわかっている。だからときに人種、宗教、性を越えて連帯の渇望に目覚めるのだ。
EUに入ったらトルコの人権状況が改善するなんて夢想が現実化しないことなどスザンヌも分かっている。だからこそ、今ある過程こそが大切なのだ。イエテンのために銃を運んだロッテはイスタンブールの下町で突発的な出来事で悪ガキに射殺されてしまうが、スザンヌの奔走で本来なら15年も20年も出獄できないはずのイエテンは牢を出ることができる。そう、イスラムのトルコはEUに入らたんがため、ここ何年も死刑を執行していない。
愛はどこにある? 移民の中にも、ドイツネイティブの人の中にも。ただ、それを表すには時間と犠牲が必要であったのだ。悲しいけれど「和解」のために通るまわりくどく、遠い道のりだったのだ。

そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」)(前同)

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