kenroのミニコミ

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ファンタジーは成長の砦  パンズ・ラビリンス

2007-10-14 | 映画
不思議な映画である。というか、変な作品である。ファンタジーは時に過酷であるという意味では常道ではあるのだが。
フランコ将軍がスペインを掌握せんとしていた時代、ファシズムを体現している冷酷なビダル大尉のもとに再婚する母とともに山奥の駐屯地に向かう少女オフェリア。本好きのオフェリアはいつしか現実の世界から逃れていくがそれこそが現実となる。オフェリアは地下の魔法の王国のプリンセスだというのだ。
いろいろあるが、母を失い最後は自身も命を落とすオフェリアは死ぬことで王国のプリンセス・モアナと迎えいれられめでたしとなるのだが。
過酷というのは現実が過酷であること。ビダル大尉の息子さえ産まれれば、妻には用はない、血もつながっていない娘であるオフェリアはなおさらのこと、もオフェリアにとって過酷であるならば、魔法の世界に戻るための試練もまた過酷だ。大ガエルと対峙したり、子どもを食べて生きている怪物からすんでの所で逃れたり。
うん? これってどこかで見たことないか? そう魔界で修行を積んで?成長していく姿は千と千尋の…ではないか。そう、今やメキシコ映画界を牽引する一人、ギレルモ・デル・トロは宮崎アニメの大ファンだそうである。ぱくりである部分も多い。
デル・トロはハリー・ポッターシリーズの「アズカバンの囚人」も監督しており、ハリウッド的活劇は得意だ。本作は活劇ではないが、オフェリアが導かれる魔界の雰囲気は十分。ふし(木の枝に化ける虫)が妖精に変化するCGなどデル・トロの表現力は申し分ない。が、本作の要諦は監督のうまさではない、と思う。
少女の成長を導くのはパン=牧神である。山羊の面妖と人間の下半身を持つ牧神はギリシア神話に登場し、キリスト教世界では「羊飼い」と役割を変え、神のもとに生きる人間たちの欲望を引き出す重要なメタファーである。「なぜ再婚したの?」と聞くオフェリアに対し、母は「女は一人で生きていけないの」と答える。当時の経済的な意味もあるが、母が身ごもりビダル大尉のもとに行くことでその意味は明白である、その意味をオフェリアもまた学んでいき、女王に戻る試練の中でパンになしてはならないとされた食事=禁断の身、を口に含むことによって自身の導き者である妖精を失う。母の言説、オフェリアの食飼は紛れもなく性である。
そう見れば、繰り返される流血の肢体も説明がつく、とはあまりにもフロイト的である。
深読みは別にしても、ファンタジーとはそういうものなのだろう。子どもから大人へ、性の目覚めへ。
きつい現実から子どもでなくても逃れたいと思うことはある。ましてやフランコ将軍の圧政の時代では。それを夢想によって解決するのがファンタジーであって、現実的に対峙するのが反体制ゲリラである(本作の歴史的背景では)。
夢想では解決しえない強い精神力をと、ファンタジーを排したところでデル・トロは訴えているのかもしれない。

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