kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

パリ美術巡り2 ルーヴル美術館2

2007-02-08 | 美術
その作品の前で動けなくなり、見とれて、見疲れて、いや、作品の側からきちんと見ろみたいに感じる作品は多くはない。それは多くの名画、名作であるからというこちら側の刷り込みもあるだろうし、その時の自分の気持ち、美術館の展示の仕方、観客の多寡など多くの要素があると思う。けれど、これまでクリスチャンでもない自分が涙を流し、知らないうちに跪いていたサン・ピエトロ寺院はミケランジェロのピエタ像、その部分だけ有料で、単なる教会の一角にすぎない場所に安置されていた、訪れたのが遅く閉館(4時)まで長い時間がなかったことを惜しんだゲントの聖バーフ大聖堂はヤン・ファン・エイクの「神秘の子羊」は別格だった。
 そして「岩窟の聖母」。ルーヴルは人が多い。実は今回ルーヴルには旅行期間中3回訪れたのだが、最初は来館者がとても多く作品に近づくこともおぼつかなかった。それでちゃんと見られていなかったのだが、ダ・ヴィンチの作品は「聖アンナと聖母子」、「ヨハネ像」とともに並んでいた「岩窟の聖母」。
 ダ・ヴィンチの技術については今更私が述べるまでもない。完璧なスフマート、ラファエッロのような、言わば、つくったような慈悲の笑みではなくとまどいもありながらの深い微笑をたたえるマリア像。完璧である。大げさだけれども、このマリアをあるいはヨハネを見て、許しを乞わない人などいるのだろうかというほど、慈愛に満ちている。ただ、慈愛とはキリスト教の専売特許ではない。というのいうことの証明がこの「岩窟の聖母」なのである。
 聖書には詳しくはないが、キリストの生涯は、その死、復活、昇天まで語られることは多いが、実はマリアはどうなったのか定かではないそうである。それが、画題として好まれる逆の理由かもしれないが。映画ダ・ヴィンチ・コードの影響でマグラダのマリアにスポットが当たっているが、マリアの次にキリスト教絵画の女性題材といえばマグラダのマリアであろう。近世画家の多くが描いている、レンブラントも、ムリーリョも、エル・グレコも描いているキリスト降架のそばで泣き崩れているのはマグラダのマリアではあるが、母マリアの二の次である。
 聖母子を一番美しく、慈悲深く描いたのはラファエッロと言われるが、岩窟の聖母をみてほしい。慈悲だけではない、ダ・ヴィンチの描くマリアには憂いがあるのだ。そう、慈悲と憂い。スフマートならではと言ってしまえばそれまでだが、あふれるほどの慈悲の笑みに翳る憂い。大物であるイエス(開祖者だから当然だ)を無原罪で産み落としたマリアの気高さを絵画で表してきた例は数知れない。が、これほどまでに無原罪を含みつつ、慈悲を描いたのはダ・ヴィンチだけではないか。そう、キリスト教絵画は基本的に主題ごとなので、キリスト磔刑や東方三博士の礼拝など個別的な画題が圧倒的だ。前近代の祭壇画は主題ごとにパネル展示しているが、一枚の絵でさまざまな画題を組み合わせたモノは少ないのではないか(中世教会絵画でたくさんあるがもちろん平板で技術的には低い)。そしてそれに成功したモノはなおさら。さらに慈悲を受けるイエスとヨハネの表情もおよそ幼子でないところがまたいい。
 岩窟の聖母は、一枚の絵でマリアの幼子イエスに対する思い、イエスのその後の大成、そのイエスに洗礼するヨハネとすべての要素が美しく、そして大げさでなく描かれている。数学者、物理学者であったダ・ヴィンチはバランスという点からも完璧な構図で描いて魅せ、そして先述のスフマートの曖昧な魅力。
 2回目に訪れた岩窟の聖母には人影なし。動けなかったのか、動きたくなかったのか。じっくり付き合うことのできた至福の時間であった。
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