kenroのミニコミ

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「知らなかった」では済まされない   ルワンダの涙

2007-03-22 | 映画
ルワンダの涙



ルワンダ虐殺から13年。昨年公開された「ホテル・ルワンダ」に続いて恐怖の歴史が映像化された。2004年、虐殺10周年追悼式に欧米も含め多くの参列者があり、この機にジェノサイドの真実が語られるようになったのかもしれない。犠牲者の数は50万とも100万とも言われ、正確なところはわからないが、たった数ヶ月間の間にそれだけの人が虐殺されたのは事実だ。そして人の命には値段がある。
最初国連軍が助けに来たのは、フランス軍からなる構成だったためかフランス人だけと言う。そしてそれに反発した人たちに対しての答えは「西欧人だけ」。映画では国連軍という上からの命令がなければ(というか、上から「すべてのフツの人たちを助けよ」なんて指令がでるわけもないが)何も動かない組織の硬直性と、そもそもやる気のない西側の心根が暴きだされているようである。学校に逃げ込んだ   「ホテル・ルワンダ」では大使館と言う名のホテルだったが   西欧人を国外に逃がすことを第一に考えたそのすぐ外でフツの人たちはナタで惨殺されていった。たとえば西欧人一人を国外に逃がす費用、航空運賃、食料その他もろもろがあれば、フツの人たちを救えたのではという浅はかな思いを断ち切るかのようにあっという間に消し飛んでしまう命。
本作が映像化された訳は、実際当時ルワンダで取材をし、土壇場のところで逃げ出したBBCの記者のトラウマが原因であるという。そう、怖い目に遭うこと、それを見たこともトラウマになるなら「逃げた」という思いもトラウマになりうるということを示した。そしてトラウマとは本来その根本原因に直に向き合うということも解消法の一つと考えられるなら、当然記者の贖罪の意識も含めて出来上がったと考えられるのが本作=完全作である。映画ではボスニアでの取材経験のあるBBCの記者が最後には撤兵する国連軍と逃げ出す(ということは学校に遺されたフツの人たちは虐殺されるにまかせるということだ。実際、国連軍の駐屯場所となっていたこの技術専門学校では撤兵後わずかの間に2500名以上の犠牲者が出たという)青年海外協力隊の青年教師に対してBBCの記者は「ボスニアで見た死体はこれが私の母だったらと想像したけれど、ここではただのアフリカ人が殺されているとしか感じなかった」と告白していることことからも、原作者のトラウマは自分の逃げた、あるいは差別意識の部分を赤裸々に語る必要があったということではないか。
ルワンダの人たちを技術学校に最後まで匿い、そして殺される西欧人の神父は実在の人物がモデルで、その神父のもとに集まる人も含めてルワンダではクリスチャンが比較的多かったのも興味深い。アフリカにおける後進性の証として西側プロパガンダではイスラム教や前近代的な土俗宗教がやり玉にあがることが多いからだ。その最たるものはFGM(「女性性器切除」  「母たちの村」で詳述)であろう。しかしFGMはイスラム教と関係もないし「土俗」宗教が全くの濫觴でもない。人は宗教の名の下に人を傷つけることもあれば殺すこともあり、信仰とは関係なく人を殺すこともある。
その上で、インターネットの時代に、いや情報優位社会、持てる者に違いない私たちにとって「知らなかった」では済まされない現実がある。少なくとも知ることができる立場にある者が知らないふりや知らない怠慢を理由に何もできなかったことは許されない。国連の介入が遅れた、西洋白人主義であったのは誰のせいか、その間に幾人もの人が殺されたか。
「知らなかった」の罪は私たちの想像(できたらであるが)以上に重い。

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