kenroのミニコミ

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送還日記  メディア・リテラシーの限界と教訓

2006-05-07 | 映画
「映像はすべてプロパガンダである」。映画の通常のパッフレットがない「送還日記」で単行本を編著した「A」や「A2」を撮った森達也の言葉だ。CGはもちろん、脚本や台詞など「作り事」を排したドキュメンタリー作品で知られる森が言うのには理由がある。ドキュメンタリーと言えども被写体/映像の選択、編集などには作者の意図や好みが入り込み、見る側に伝えたいものを一切なくすることはできないし、そもそも「伝える」ことなしにドキュメンタリーは存在価値がないとも言えるからだ。そして、森は「すべての表現はプロパガンダであることからは逃れられない」ことを前提にノンフィクションの世界を描き続けているのだ。
「北」のスパイ(工作員)として捕えられ何十年もの獄中生活を送った人たち。その中には軍事独裁政権下韓国での熾烈な拷問にも耐え抜き「非転向」を貫い人たちも含まれる。90年代の「民主化」の波の中次々と出獄してきた老人ら。彼らとの10年を超える付き合い、密着したカメラワークが「送還日記」だ。毅然とした態度、思慮深く物静かで敬愛の念を抱かざるを得ない老人もいれば、女性の話が好きなくだけた「おっちゃん」もいる。「南」出身で若い頃から社会主義の理想に燃え、金日成総合大学を卒業後「南」に派遣された言わばエリート政治工作員もいれば、工作船の一船員にすぎなかった人もいる。非転向を貫いた人もいればもちろん転向した人もいる。
韓国でドキュメタリー作家の大御所と言われるキム・ドンウォンが捉えた彼らの姿は「北」の「工作員」というレッテル?出自?からは想像できないくらい「人間らしい」。出獄後も貧しい中をキム監督をはじめ支援者、ボランティアの助けで生活する彼らはつましいが、そういった境遇に荒れもせず、共和国の正当性を信じ、祖国統一を願っている。しかし、親しくなった彼らが和気あいあいとしたハイキングの場で「金日成将軍の歌」を歌いだし、とまどうドンウォン。
「非転向長期囚の送還運動」にはもちろん韓国内で反感、抵抗もあったようだ。それはそうだろう、「工作員」の使命には「南」側の人民の「拉致」も含まれており、その数486人に登ると言われる(韓国政府の正式認定)。ただ、現在日本では北朝鮮による拉致問題に関連して、横田さんらが要求している経済制裁が結局北朝鮮の民衆を疲弊させるだけで、体制の弱体化にはつながらないのではという否定的な言辞が許されない、理性的な言辞が排除される状況も異常なら、拉致被害者家族らが政府の「弱腰」を批判したことに対する攻撃や、横田めぐみさんの写真展が脅迫により開催場所を変えざるを得なくなった事態も異常だ。
要は、正か邪か、あちら側かこちら側かと言う二元的発想、二項対立的な発想が危険なのだが、現在日本ではワンフレーズ首相の人気が高いことからもわかるように、そのような状況が強くなっている。これは森の指摘するところでもある。そして、国家の罪と国民の罪は分けて考えるべきであり、そしてそのような国家の罪をつくっているのがまた一人一人の国民の罪であるということも忘れてはならないだろう。
メデシアに対するリテラシーの重要性が叫ばれるが、メディアにはそもそも大衆を一方向に動員する危険性と無縁ではありえないし、特に文字になり冷静に読み解かれる前の発言や映像は大衆を容易に熱狂へと導く。だからリテラシーとはメディアに対するそれよりも、一人一人の人間が何を考えどう生きているのか、政府や権力(マスメディアもそうである)の宣伝以外のものを読み取る能力、想像力そして作業なのだろう。そう、「北のスバイだって人間だ」。

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