kenroのミニコミ

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「忘却の海」とは果たして? 2014横浜トリエンナーレ

2014-10-12 | 美術
日本で開催される数年ごとの現代美術展のなかですっかり定着した感のある横浜トリエンナーレはもう、今年で5回目だ。また、横浜では歴史遺産となっている赤レンガ倉庫を使った会場そのものが大規模なインスタレーションとなっていた手法は止めて、ここ2回は横浜美術館をメイン会場とする手堅い運営も定着したようだ。たしかに、赤レンガ倉庫自体がもともと作品展示に向いていなかったし、他の会場とのアクセスも悪い。横浜美術館を起点とすることで、シャトルバスを回し、他の会場へも回りやすくなっている。このやり方は、越後妻有トリエンナーレや瀬戸内国際芸術際などの地方開催でなく、都会の開催ということで神戸ビエンナーレや愛知トリエンナーレにも参考になるかもしれない。
今回の総合テーマは「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」。華氏451とは、本の所持や読書が禁じられた未来世界を描くレイ・ブラッドベリのSF小説『華氏451度』から来ている。アースティック・ディレクター森村泰昌が「私たちは今、根源的な何かを忘れているのではないか。そのことに敏感に反応している芸術表現を集めることで、考えるてがかりに」と述べている。「根源的な何か」とは人によって違うだろう。しかし、「忘れる」という営為は人間にとって必然であり、ときに必要でもある。そして、とかく人間は忘れてはいけないことを忘れたり、忘れたいのに忘れられないことがある。ただ、それも人間の性で、であるからこそ、忘れたことの価値と忘れることの大事さを再認識する必要があると思うのだ。
さて、森村は「(芸術は)ものを作ると同時に、ゴミを作っている。(中略)完成すると、ゴミや働く人たちに感謝することもなく忘れてしまう」とも言う。また「トリエンナーレは忘却の海に漕ぎ出して、忘れていたものを引き上げる展覧会」であると。確かに芸術は大量のゴミを作りだす行為だ。そして、ゴミにならなかったほんの少しの作品が後世に残り、愛でられる。本展は11の物語から構成されていて、横浜美術館のオープニングはイギリス人マイケル・ランディの不要な美術作品を放擲する巨大なゴミ箱。崇高な作品がゴミ箱に入った途端ガラクタと化する理不尽。そのものは何も変わっていないのに。
物語は第1話「沈黙とささやきに耳をかたむける」から始まる。横浜美術館の所蔵作品からカジミール・マレーヴィッチやアグネス・マーティンなど抽象表現主義から読み取れるのは何か。それはラトビアの画家ヴィヤ・セルミンスの描く「銃を撃つ手」で明らかだ。描いていないものを、あるいは表面的には描かれていないものを想像することだ。セルミンスの銃の先には何があるのか。それは暴力か、憎しみか、戦争か。
第2話、「漂流する教室にであう」は、釜ヶ崎芸術大学の実践紹介である。高度経済成長の停止とともに置き去りにされた釜のおっちゃんらが集う「学びあい」と「表現」の場である。正式な芸術教育を受けていないおっちゃんらの絵画、習字、詩歌は「表現」からもっとも遠ざけられていた人たちの「発現」でもある。岡林信康ではないけれど、「(おれのしていることなんて)誰もわかっちゃくれねえか」なのである。(もちろん岡林の歌は「山谷(ブルース)」で釜ヶ崎ではない。)
第3話「華氏451はいかに芸術にあらわれたか」では、この展覧会限りの巨大な書物まで現れる。そう、忘れ去られるための書籍。
以下、第11話まで続くかが、全部を見たわけではないし(会場が離れているのもある)、詳しく語るには手に余る。それは、今回のヨコトリが目指しているのが明らかであるからだ。「忘れる」ことを思い起こさせること、そして「忘れる」ことを認めること。実はこれが一番難しい。(続く)
(マイケル・ランディ「アート・イン」)
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