スイスのローザンヌというとバレエ・コンクール。しかし、知る人ぞ知る美術館がある。アール・ブリュット美術館(ニキフォル 知られざる 天才画家の肖像 http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/79ef94c7e2d7db02fbd7c1bd94667138)。障がい者アートをアール・ブリュットと名付け、広めたのがジャン・デュビュッフェ、そのデュビュッフェの師がジャン・フォートリエである。アンフォルメルの嚆矢がデュビュッフェであるなら、フォートリエのドローイングはそもそもその普遍的価値を広めた。
フォートリエの抽象性は、日本ではかなり受け入れがたい部類のものではないか。それは、フォートリエの影響を受けたとされる1950~60年代関西は阪神地区で大きな足跡を遺した具体美術協会が、美術の世界ではその功績を評価されながら、美術界を離れると誰も知らないことに端的に表れていると思う。
現在、美術教育の分野では、現代美術に対する距離を縮めようと例えば、「面白い」をコンセプトに小中高生を、現代アート展に連れていったりする取り組みもある。たしかに「面白い」からはじまるアートへの近接はある。しかし、フォートリエの大きな仕事である戦争を描いた、一連の作品「人質」シリーズは少なくとも「面白い」ものではない。
塹壕戦、毒ガス戦。近代戦争の大量殺戮を可能にした総力戦、殲滅戦は第1次世界大戦ではじめて展開され、それに従軍したフォートリエ自身、毒ガスに襲われる。傷病兵として銃後に運ばれ、入院したフォートリエ19歳。オットー・ディックスの言に明らかなように、近代戦争は人を人として捉えなくする最大限の装置が備わっていた、人間性破壊という。
第2次大戦には従軍しなったフォートリエは、スイスからフランスに戻ったところで反政府主義者と交流があるとしてゲシュタポに捕まる。すんでのところで解放されたが、その前後、フォートリエが制作していた作品群は、その事件の精神的ショックもあり、先鋭化を増していく。「人質」シリーズ。
反ナチスとして、捕えられ、すさまじい拷問を受けた兵士や、うち捨てられる罪のない市民。骨は折れ、むき出しになり、顔をそがれ、生前の姿をとどめない人たち。フォートリエの抽象は、具象によっては描き切れない、描いていては逆に真実を伝えきれない、なのに描くことで伝えるしかないという画家としての業を最大限追求した姿でなかったか。
戦争の実相、写真や動画のある現代、絵画で訴求することの限界性を以前書いたが、それでも、絵画の力でその暴力性、無慈悲性を伝えることはできる。フォートリエの「人質」シリーズは、抽象に見えるけれども、実際は具象。腕のない、撃たれ傷つく兵士や市民の姿が、よく見れば、フォートリエの画業から見て取れる。
「人質」シリーズをはなれた後のフォートリエは、厚塗りの度合いを高めていく。見事、具体の白髪一雄(足で描いた)や嶋本昭三(インク瓶を投げつけた)に受け継がれていると思うのは考えすぎか。ルネサンスの肖像画が古びないとの同じように、フォートリエの抽象も古びない。絵具を厚塗りしているだけにも見えるその作品群は、ドローイングという現代絵画の分野から見れば、全く「前衛」でさえもなにもないところが面白い。(「人質の頭部 №5」)
フォートリエの抽象性は、日本ではかなり受け入れがたい部類のものではないか。それは、フォートリエの影響を受けたとされる1950~60年代関西は阪神地区で大きな足跡を遺した具体美術協会が、美術の世界ではその功績を評価されながら、美術界を離れると誰も知らないことに端的に表れていると思う。
現在、美術教育の分野では、現代美術に対する距離を縮めようと例えば、「面白い」をコンセプトに小中高生を、現代アート展に連れていったりする取り組みもある。たしかに「面白い」からはじまるアートへの近接はある。しかし、フォートリエの大きな仕事である戦争を描いた、一連の作品「人質」シリーズは少なくとも「面白い」ものではない。
塹壕戦、毒ガス戦。近代戦争の大量殺戮を可能にした総力戦、殲滅戦は第1次世界大戦ではじめて展開され、それに従軍したフォートリエ自身、毒ガスに襲われる。傷病兵として銃後に運ばれ、入院したフォートリエ19歳。オットー・ディックスの言に明らかなように、近代戦争は人を人として捉えなくする最大限の装置が備わっていた、人間性破壊という。
第2次大戦には従軍しなったフォートリエは、スイスからフランスに戻ったところで反政府主義者と交流があるとしてゲシュタポに捕まる。すんでのところで解放されたが、その前後、フォートリエが制作していた作品群は、その事件の精神的ショックもあり、先鋭化を増していく。「人質」シリーズ。
反ナチスとして、捕えられ、すさまじい拷問を受けた兵士や、うち捨てられる罪のない市民。骨は折れ、むき出しになり、顔をそがれ、生前の姿をとどめない人たち。フォートリエの抽象は、具象によっては描き切れない、描いていては逆に真実を伝えきれない、なのに描くことで伝えるしかないという画家としての業を最大限追求した姿でなかったか。
戦争の実相、写真や動画のある現代、絵画で訴求することの限界性を以前書いたが、それでも、絵画の力でその暴力性、無慈悲性を伝えることはできる。フォートリエの「人質」シリーズは、抽象に見えるけれども、実際は具象。腕のない、撃たれ傷つく兵士や市民の姿が、よく見れば、フォートリエの画業から見て取れる。
「人質」シリーズをはなれた後のフォートリエは、厚塗りの度合いを高めていく。見事、具体の白髪一雄(足で描いた)や嶋本昭三(インク瓶を投げつけた)に受け継がれていると思うのは考えすぎか。ルネサンスの肖像画が古びないとの同じように、フォートリエの抽象も古びない。絵具を厚塗りしているだけにも見えるその作品群は、ドローイングという現代絵画の分野から見れば、全く「前衛」でさえもなにもないところが面白い。(「人質の頭部 №5」)