kenroのミニコミ

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デルフト・スタイルの秀逸と卓越  フェルメール展(東京都美術館)

2008-12-13 | 美術
「小路」は、「真珠の耳飾りの少女」や「絵画芸術」よりも傑作である。
フェルメールを語るとき、あまりにも有名な後2作よりもフェルメールがデルフトの一地方画家であることを示す確認、そして称揚するものとして語られることがあることを知っている。それほどまでにフェルメールがデルフトというオランダの一地方出身の画家であり、彼の作品が30数点しか確認されておらず、にもかかわらず作品に魅了されている人が多いということを認識されているからだろう。 
フェルメールは英国の美男コリン・ファースと米国の若手トップのスカーレット・ヨハンセンを擁したにもかかわらず凡作に終わったと評される「真珠の耳飾りの少女」の映画化や、昨今の人気からも見て分かるように今や大人気である。「真珠の…」を擁するハーグはマウリッツハイス美術館には日本人観光客も押し寄せているとか。
本展は、フェルメールの周囲を丹念にたどっている。その証として港町として成功したデルフトの紹介、フェルメールをはじめそこから輩出した画家たち。アムステルダムはもちろんのこと、レイデンやロッテルダムなどデルフトよりはるかに大きな町にも比して商業都市としてある程度成功したデルフト。毛織物、タペストリー、デルフト焼。しかし国際貿易競争でもレイデンなどに負け、しかも1654年火薬庫の大爆発で町は廃墟と化す。
繁栄を謳歌し続けることができなかったデルフトで、フェルメールと彼と作風が同傾向の画家が多く活動する。なかでもカレル・ファブリティウス、ピーテル・デ・ホーホはまさしくフェルメールと同時代に活躍した画家であるが、もちろんフェルメールほどには日本では知られていない。しかし、ファブリティウスはレンブラントの「最も革新的な弟子」と言われ、評価が正当に高くないのはあまりにも少ない現存作品数であると言う。光の画家レンブラントの劇的な描画法を体得しつつ、デルフト・スタイルと言われる静かな都市景観を描きあげたファブリティウスは火薬庫大爆発によって32歳で夭折したからだ。
屋内風俗画の多寡ではフェルメールをはるかに凌ぐデ・ホーホは、その数の多さ故評価が低かった面もある。これは、フェルメールの「発見」以降、透視画法や光(遠近法)の使い方でフェルメールを凌げないと目されたからで、デルフト・スタイルへの貢献度がなんら減じることはない。借金と家業(妻の母方の宿屋の集金業)に追われながらも静謐な仕事を半ば隠遁生活の中で遂げたフェルメールが後進を育て得なかったのに比して、デ・ホーホは「デ・ホーホ派」と言われるくらい後進に影響を与えた。が、デ・ホーホも弟子は取らなかったとされる。中世の画業がもっぱら王侯貴族丸抱えから、大規模な工房を抱え商人らの注文にも応じた近代的な形態へと変化する中で、デルフト・スタイルの画家らは金銭的には恵まれた環境とは言えなかったようである。もっともレンブラントも成功と同時に諸国万有の珍品を蒐集しすぎたあまり破産したのは有名で、フェルメールも彼の死後、相続人は「絵画芸術」を残してほとんど手放さざるを得なかったほど苦しかったようである。一方デ・ホーホはなんらかのパトロンを得ていたため、作品もちゃんと残り、影響を受けた弟子も育ったのではなかろうか。
そしてフェルメールである。本展で確認できるのはやはりデ・ホーホよりも後期デルフト・スタイルの画家らの作品よりもフェルメールの卓越である。透視画法も光遠近法もカメラ・オブ・スキュラを使用しつくしたとされるフェルメールの手にかかれば、他の画家を差し置いてあまりある。それは、フェルメールが有名であるからではない。もちろん、30数点のフェルメール作品の中でそれほどではない作品もある。しかし、本展は初期の宗教作品「マルタとマリアの家のキリスト」から「小路」を経て「絵画芸術」まで、フェルメールの卓越を再確認、そしてその前提となるデルフト・スタイルの画業が一望できるのである。
「小路」から始まった、デルフトというオランダ中商業都市の成功と衰退がかいま見える本展である。(リュートを調弦する女)
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