21日、お天気が少し心配されましたが、無事に住職の葬儀を修めることができました。
多くのご寺院方、檀信徒、地域の皆様のお見送りをいただき、感謝、感謝の言葉しかでてきません。
私自身に問いかけることもあわせ、普段、自身のことを多く語らなかった住職のこと、思い出の一端を綴りたいと思います。
賢昭和尚は、石川県輪島市にて小学、中学校時代を過ごしました。
能登といえば海を想像される人が多いかと思いますが、実家は山奥、小学校からも険しい山道を歩いて登下校したそうです。
「この道、この距離を歩いたの?」とビックリするほどの道のりです。数件あった集落も今は住職の実家1件になってしまいました。
本人がどうしても勉強をしたいということで、高校からは埼玉県鴻巣市のお寺に住み込み、寺の仕事を手伝いながら学費と住まいを工面し、大学まで進学し、大学在学中に友人とスキーに浦佐へ訪れ、その頃はまだスキー宿をしていた千手院に宿泊し、それがご縁の始まりとなりました。
昭和43年に浦佐に根を下ろし、今年で丸50年、先代の老僧を見送ってから丸20年、自身の誕生日を迎えた直後の旅立ちとなりました。
10年ほど前より癌と向き合う日々が続き、多くのがん患者を持つ主治医の先生とも一番長い付き合いになったね・・・と笑いながら話しておりました。
今年5月から自身の力で病院に通えなくなり、地元の病院に転院するも、将棋や囲碁など、頭を使うことが大好きだった和尚は、頭と手先がしっかりしており、表には出られなかったものの、お寺の裏方仕事に徹してくれました。
最後まで私たち家族が話すことを、特に耳元で話さなくても、よく聞こえ、理解しておりました。
血中の様々な数値が下がってきて、輸血をしようとした際、自身の言葉で、はっきりと「そういうことはやめて欲しい」と先生、看護師さんに伝え、その後、1日で静かに穏やかに目を閉じました。
愚息ながら、先代老僧の時と同じく、本当に見事な最後でした。そして老僧、祖母の時と同じく、私は15分ほど間に合わず看取ることができませんでした。
和尚に一番救われたのは、本山長谷寺で、研修生として修行している時でした。
期間は2年、1年目終了時、プライベートで辛い思いをし、2年目も同じ年中行事を通して学ぶのなら、他のところで学びたいと思っていた私に和尚は電話口でこう言いました。「自分で決めたことだろう。だったら、その間はやり抜いてみたほうがいいと思う。1年目と2年目では、同じ事をしていても学ぶことが全然違うはずだから・・・」と。
まだ20歳そこそこの若造は、何とか立ち止まることができました。
そして2年目で学んだことは、同じことしていてもまるで次元が違うものでした。「あの時、続けていて本当に良かった」と今では思います。
人とのご縁とは本当に不思議で、有難いものですね。
こんな事を書くと、住職から怒られそうですが、最後は少しだけ皆さんに知っていただいてもいいのではないかと思い、綴らせていただきました。
6月下旬にピークを迎えるかな?と思っていたホタルたちも、ここのところ比較的涼しく、湿度が少ないせいか、ほとんど姿を見せていません。
ただ、お通夜の夜から私の寝起きする離れの玄関に、1匹のホタルがとまったまま、朝から夜までずっといました。
夜になっても飛ばずにいるのです。そのホタルも今日はいなくなりました。
葬儀の大体の後片付けが今日終わりました。それを見届けて飛んでいったのでしょうか・・・。
あとは宗派や役所など、事務手続きを急がねばなりません。
長年、お檀家や地域、お寺のために身をささげてくれた住職のご恩に報いられるよう、さぁ、私も前へ進みます