新 風のふくままに 

写真付きで日記や趣味を書く。プロフィールを変えました。

地震と地盤、そして地震や火災に強い家

2024-01-18 | 日常

今回の能登半島地震で、震度7を記録した志賀町では、意外に倒壊の家屋が少なかったのだとか。

その説明として、地盤が固かったからではないかという記事があった。

同じ構造の建物でも、地震の揺れ方によって、壊れ方が違うそうだ。その揺れ方に影響を与えているのが、地盤の強弱なのだそうだ。

砂地とか埋め立て地では揺れ方が大きくなりがちで、特に木造住宅は壊れやすいとか。

ビルも低層、中層、高層によって、地震の影響を受けやすい揺れ方が違うらしい。しかし、いずれにしても軟弱地盤の土地では、特に耐震構造を頑丈にしないとなりませんね。今は免振構造が取られるビルの方が多いのでしょうが。

免振構造が取られているビル、震度7とかになった時にどうなるかは、まだ実際に地震が起きていないから、理論通りに行くのかどうか?それでもタワマン人気なのだそうだから、老人にはよく分かりません。

地震による火災でも、相当の方々が今回も亡くなっていらっしゃった。皆避難なさっていたのかと期待していたのだが、倒壊して逃げ出せなかったのかもしれません。

2016年の糸魚川の大火で、一軒だけ、焼け残った家があって、特別な建て方ではなく在来工法だったらしいが、特に地震に強い家をと、頑丈に作ってもらった家だったらしい。

今産経新聞の記事を見つけて、その家の作り方が出ていたから、貼り付けてみる。

「その家は、窓ガラスのひびと、エアコンの室外機やインターホンが高熱で変形するといった程度にとどまったそうだ。

 燃えなかった理由は、普通の住宅とは異なり、火に強いステンレスのトタン板を外壁に使い、一部は耐火レンガだったことが大きいとみられる。屋根の洋瓦も一部はステンレス製だった。さらに、暴風に備えて窓はワイヤ入りの二重ガラス。屋根の軒先は火の粉が入りづらいように設計されていた。建築費は一般住宅の1.5倍かかった」とか。

すごいですね。木造でも作り方によっては火災に強くできるのですね。

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耐震基準の話―2000年基準

2024-01-18 | 社会

この間ネット記事で、能登半島地震で、意外に新耐震基準の家も壊れているということが出ていた。昨日のテレビでは、2000年基準の家の壊れ方は非常に少ないということが言われていた。

2000年基準って何だろう?と思って検索してみたら、住〇林業のサイトが詳しく説明してあった。

建築基準法が施行された1950年の耐震基準は震度5に耐えられる家ということで決められて、それ以上の大震災には対応していなかったそうで、旧耐震基準と言われているとのこと。

1981年6月1日に(昭和56年)に作られた新耐震基準は、1978年の宮城県沖地震の被害から作られて、震度6の地震に耐えられるということを基準としていたそうで、それ以上の大地震には対応していなかったそうだ。

その後阪神淡路大震災の経験から、さらに構造的な面から細かな指定がされて、2000年基準なら、かなりの大地震にも耐えられる構造らしい。壁の量的バランスや床の丈夫さなども規定されているそうだ。

私が関わっていたころの保険会社では、新耐震基準を満たしていたら地震保険料1割引きだったが、その後耐震等級というものが決められて、さらに2割引きとか3割引きなどになったと思うが、この耐震等級は新築家屋で等級を認定していただくのにお金がかかったような気がする。それで、新しい家で、建築会社が販売時に等級を取って販売しているような場合には、割引が適用されたが、自分で等級を認定してもらっていることはめったになかった。今はどうなんだろう。契約更新しても、あまり約款など読んでいないのでね。

親の家は最初に建てた時は公庫住宅で準耐火だったのだが、その後の改築はまだ旧耐震基準時代だし、増築では新耐震基準を満たしていたとは思うが、つぎはぎの部分は構造的に弱いと言われているから、ちょっと恐ろしい。

やっぱり耐震診断をしてもらって、補強した方が良いのかな?お金がかかるらしいけれど。増築を繰り返しているので、そういう耐震補強の補助金は出ないらしいのだ。

2階建ては圧倒的に階下がつぶれている映像を見ると、日常生活は2階にする方が良さそうだ。備蓄も2階に置いておいた方が、生き延びた時には役に立ちそうだ。

阪神淡路大震災から29年、東日本大震災から11年、能登半島地震と大地震が相次いているわけで、やはり南海トラフの地震が関西地方で50年くらいの間に大きめの地震が何回か起きているという所を見ると、関西地方はもちろん関東とか九州とかでも、要注意なのだろう。

もっと真剣に考えないとね。

 

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門灯が点かない―修理代かさむ

2024-01-16 | 日常

一昨日あたりから、階段と門の所の電灯が消えかかっていた、ついに点かなくなってしまった。自分で何とかしようと、蛍光灯とグローランプを変えたが着かない。階段脇に設置した電灯もつかないので、以前電器屋さんがシールしてくれたところをカッターを使って剥がしたが、開けられない。

仕方ないので、電器屋さんに電話したら、珍しくいらっしゃって、割とすぐに来て頂けた。

電器屋さんも階段の所の電灯のカバーを外すのに苦労なさっていたが、クレ-55が一番効いたとおっしゃって、何とか取り外せたそうだ。

一番問題だったのは、暗くなったら自動で点くようになっている装置で、それが壊れていたそうで、その部品を取りに戻り、最新型に取り付けて下さった。

門灯はどういう訳か、2本の内一本しかつかなくて、そのまま帰られたが、階段横の電灯はなんとか点くようになった。鉄の部分がさび付いていたみたい。

今回は雨漏りが心配だがシールで塞ぐことはしなかったようだ。

部品代は大したことが無かったが、作業代金がその倍くらいかかってしまった。電灯そのものを取り換えたらもっとかかるけれど、突然の出費。今月は仕事量も少ないみたいだから、ちょっと大変だ。

家族が置いて行った加湿器も部品を変えたら、小さい加湿器を3台くらい変えそうで、参りました。

古い家の維持は、お金がかかります。

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高尾山で新年会2024.1.13.

2024-01-15 | ハイキング・登山

大分前に2024年の新年会を高尾山で実施しようと話していた。しかし、元旦の能登半島の大地震のニュースに、金沢出身のリーダーは、少し鬱鬱なさっていらしたようで、一度は中止しようかという話になったのだが、一年ぶり位にお会いする方達もいらっしゃるし、それぞれ予定を空けていらっしゃるのではないかと、やはり実施しようということになった。

13日の土曜日の天気は最初晴れ曇りくらいだったのだ、3時過ぎには雨予報が出て、集合を30分早めた。

皆で一品持ち寄り、お酒も持ち寄りということにしていたのだが、リーダーはおでんパック2個とおっしゃっていたのが、おでんパック3個と冷凍餃子に冷凍シュウマイ、それにおでん種色々に肉団子のパックもお持ちになり、バーナーセットもガスも足りなくなったらと大小用意。私は私でカセットコンロと鍋に調味料、肉野菜などの食材を背負ったら、結構な重量。雨具も何も持ってこなくて、ペーパータオルだけはしっかり持参。

他の方々もお酒を多めにお持ちになって、それぞれのザックはかなりの重量。

それで下から登るのは無理なので、ケーブルカーを利用することになった。さすがに今日は空いていた。高尾山は初めての方もいらっしゃって、ケーブルカーの最大斜度が日本一という場面では怖い、ケーブルが切れたら大変と、緊張の面持ち。すぐに山頂駅に到着でほっとされていた。

その方、ケーブルカーを下りたらすぐに山頂かと思っていらっしゃったとか。これから40分は歩かないとならないと聞いて、心配そう。

とりあえずは女坂からゆっくり登る。薬王院には一応お参りをして、奥の院の所は仕方ないから階段で登って行ったので、大変そうだった。

奥の院のさらに奥の院を経て、やっと木道。階段が多いけれど、緩やかだから何とかなった。アンテナを見て、トイレ棟を横にして、最後の登りは少しきついが、頂上ということで皆頑張って歩かれた。

初めての方に展望台の方に行っていただいたが、どうも富士山は雲の中だったそうだ。私たちは、東屋のテーブルお一人座っていらっしゃるところに相席をお願いして、陣取ったのだが、その方にはご迷惑だったことだろう。

2時半過ぎの山頂からの展望

テーブルに皆がお酒を出したら、すごい量になり、こんなに飲めないわねと、結局開けずに持ち帰るお酒も沢山になった。

まずは獺祭で乾杯!、その後焼酎のお湯割りだのウィスキーの炭酸割だのそれぞれが飲む傍らで、バーナーにはおでんをセットし、カセットコンロには網を乗せて、串に刺した肉を焼いたが、煙もうもうで、ご近所迷惑なことでした。

その後、鍋を拭いて、餃子を焼き、また鍋を拭いて、鍋に水を入れて、浅い小鍋を載せ、そこにシュウマイを載せて、蓋をして蒸したら、思いの外美味しかった。持参の野菜も焼き、家族のために用意した残りのプルコギも焼いて食べて頂いた。野菜をもっと入れても良かったみたいだった。

それから電子レンジで新じゃがに火を通したものを切り分けてバターを載せて持参したものをバーナーの上に網を乗せて焼いたのだが、破れたアルミホイルからバターが落ちて、赤い炎でぼうぼう燃えてびっくり。バターってこんなに燃えるんだと、改めて知った次第。なんとか温めることができて、美味しく頂けました。

私もリーダーが持参された赤ワインを炭酸で割って頂いたが、結構すきっ腹で飲み始めたので、酔いが回るのが早くて、水を汲みに行ったり動いたら、めまいしそうになって、慌てて水をがぶがぶ飲んで酔いを醒ました。

若い人たちは結構飲んでも大丈夫だったのだが、リーダーは普段それほど飲まれていなかったし年齢もあるのでしょう、すっかり酔って、足元がおぼつかないほど。2時には撤収と言っていたのだが、これでは危なすぎるので少し休憩していただき、結局3時ごろになってしまった。2時過ぎたら黒い雲が広がってきて、歩き始めたら、ぽつぽつしてきた。まあ、傘とかフードとかなくても大丈夫な程度だから良かった。危ないので階段のある道は避けて、ベビーカーをを押してもなんとか来られるという3号路を下りることにした。

皆お酒の瓶に多すぎた食料を分けて持帰るので、来た時より重いくらいという方もいらして大変。リーダーも一本お酒を入れたのでザックが重く危ない。

よろよろするリーダーの両脇を支えて、崖に転がり落ちないように一歩一歩歩くので、時間がかかったが、やっと薬王院の脇に出て、建物脇の細い通路は若い人が1人で支えて下さり、何とか通過。そこからもケーブルカー乗り場まで、時間をかけた。たこ杉のあたりで突風が吹き、みぞれが降り、一時雨もひどくなってどうしようと思ったがすぐに弱いみぞれに変わった。ケーブルカー駅まで後1分という所も5分位かかった。もう4時過ぎてしまって、土産物屋さんとか天狗焼の店も締めてしまっていた。あらっ、天狗焼買いたかったな!

幸いケーブルカーは17時半まであるようで、これから薬王院へか、向かう人も中にはいるみたいだった。

往復チケットを探し出して、皆でケーブルカーに乗り込み、座席に座ったが、進行方向に座った方はずり落ちそうになっていた。

清滝駅について、ホッとするのもつかの間、また両脇を抱えて、高尾山口駅へ。若い方はお土産に途中で蒸し饅頭を買われていたが、私達は何も買わなかった。有喜堂さんも閉まっていた。

駅の改札を通過する時はさすがに1人ずつになる。その時が危ない。昔幕山に登った後、小田原城の近くで飲んで、改札を通過する時に手を離したら、転んで頭を打って、無事だったのだが、駅員さんが心配してくださったことがあり、帰宅がすごく遅くなって、若い方が付きそいで大変な思いをなさったのだった。

それで改札を通過した先で1人が待ち受けて支えて、今回は無事だった。

若い方とは途中で分かれ、京王線の特急で新宿まで熟睡して帰ったが、リーダーはまだよろよろなさっていて、途中駅まで別の方が付き添われて、無事に帰宅出来たようだ。

まあ、ちょっとすきっ腹で飲み始めたのが良くなかったですね。酒蔵見学などの時は、先にうこんを飲んで置いたりしたのだが、今回そういうことはしていなかったから。

まあ、わずかな距離にしても、無事に下山でき、家まで帰りつけて良かったです。皆さん山登りはする気がないそうで、平らなところでのキャンプはしたいという話で盛り上がった。気候が良い時に今度はキャンプ場でお会いできると良いですね。飲む以上は一泊しないと無理ですが。

 

 

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高幡不動尊と山内88カ所巡り

2024-01-04 | 日常

昨日は高幡不動に厄除けうちわを求めに出かけて来た。昼頃になったが、すごい人出で、入場制限もされていた。駅から山門まで30分位かかってしまった。

境内には屋台が沢山出ていて、人々はお参りのあと、色々食べていらした。昔も今も半分行楽なんですね。

私はアジサイ園になったあたりから始まる四国88カ所になぞらえたお地蔵さまが並ぶ道をたどり、暴れ竜が鎮まりますようにと祈りながら、全部回った。

初めての方がいらして、次がどこだっけと、もしかしたら下の道かなと思いつつも、最初の見晴台の方に登ってしまったが、北の方角の見晴らしが広がっていた。結局南側から降りて、下の道に降りたところに次のお地蔵さまがいらした。その後は道標が沢山あって、順々に進めた。次の見晴台のところで、晴れたらコンクリートの台の上から背伸びすると富士山がくっきり見えるのだが、今日はさすがに雲が多くて見えなかった。そこも教えて差し上げた。

その後は曼殊沙華の庭園の回りをまわり、狂い咲きのつつじを見て、さざんかがきれいに咲いているあたり(そのあたりも晴れていたら富士山が見える)を通り、88番目のお地蔵様の所に降りた。お賽銭はそこにまとめて入れてくださいと最初に書かれている。昔は一つ一つに小銭が置かれていて、集めるのも大変だったと思う。

黒松

その後うちわなどを求めて、昨日はお店も混んでいるだろう喫茶に寄らずに駅に戻り、いつものようにアートマンを覗いて、帰宅した。

ミニハイキングのようなものなので、年末年始は掃除と料理であまり出歩かなかったので、少々疲れました。

 

 

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