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成田 正の楽屋入り口 by STHILA COMMUNICATIONS

クロード・ノブスさん追悼

2013-01-12 17:25:31 | ●Weblog

 以下、2004年12月に毎日新聞に寄せた拙稿。お会いしたのは12月14日、新宿パークハイアット・ホテルにて。注意深く軌道修正しないと、応えが独り歩きして止まらなくなる素晴らしい方でした。

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 スイスのモントルー。読書家ならルソーやヘミングウェイ、クラシック系の音楽好きならチャイコフスキーやストラビンスキーを思い浮かべるのが常らしいが、ジャズ・ファンの中にはここで38回を数えるジャズ・フェスティバルに、歴代の高名文士や楽士の上をいく魅力を見つける人もいる。クロード・ノブス(68歳)は、その開拓に38年間も心を焦がしてきた仕掛け人だ。
 「1967年の1回目の費用は80万円くらい。それがここ数回は1100万ユーロだから14億円超。赤字も止まらないけどね(笑)」
 この街で、パン職人の父と看護婦の母の間に生まれた。子供の頃から音楽好きで、父親の膨大なSP盤コレクションを聴いては採点までした。すると、満点の三つ星をつけた盤の大半がジャズだった。料理好きが高じて最初の仕事はシェフ。次に観光局に勤めて初めてニューヨークに渡った。これがすべての始まりだった。
 「60年代中盤だったかな。アトランティック・レコードの看板を見てすぐ、私はもう受付に詰め寄ってた。ジャズだけでなく、レイ・チャールズやアレサ・フランクリンが大好きだったからね。そしたら創業者のひとりのネスヒ・アーティガンが会ってくれたんだ」
 強引にたぐり寄せた絆を震わせ、67年に第1回目をスタート。はじめの2年はわずか3日間だったのが、68年のビル・エバンス・トリオのライブ・アルバムがグラミー賞を獲得し、さらに、アレサ・フランクリンを初めて欧州の聴衆の前に立たせた結果、72年になると期間が13日間と一気に伸びた。昨年は16日間もの長丁場だ。
 「ずっと監修役をやってきたけど、毎回、夢でしかない企画を出してくると鬼っ子扱いなんだ。でも、公算のあるなしを尺度にしてはダメだよ。夢想家と呼ばれたっていい。心から聴いてみたい音楽とメニューを、聴衆とシェアできる場にしたい」。
 という一方、夢を記録に残すことにかけては、人一倍の熱意と労力を注いできた。映像資料が3500時間分あるそうだ。「これからやるたび、大体150時間ずつ増えていくね」。04年暮れに日本に来たのは、これらの資産を地球大で共有する方法を探るためだった。ホテルの部屋には、着いてすぐ買ったという日本製のハイ・ディフィニションDVD機が置いてあった。
 「だって、チャーリー・パーカーが動いている映像が2、3分しか残ってないなんておかしいだろう」
 ヘミングウェイが『武器よさらば』を書いた頃にこの調子でいたら、ピュリッツァー賞ものだったかも知れない。『TIME』誌の欧州版(04年10月号)が、29人の「ヨーロピアン・ヒーローズ」のひとりに、この男を選んだ。