たんなるエスノグラファーの日記
エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために
 



自然と人間が互いを生かしつつ共存するという日本の農耕社会における実践的な自然哲学に貫かれた中間領域としての日本の里山。わたしが勤務する大学がある町田や相模原には、開発の手を免れたかたちで、そうした里山が、あちこちに残されている。その一つである小山田緑地公園周辺を、数週間前に、ぶらっと散策したが、そのことは別のときに述べるとして、小山田緑地公園内にあった「馬頭観音」について書き留めておきたい(写真)。その石碑には、それが、昭和3年に建立されたことが記されていた。横浜線が開通したのが明治41年のことであり、昭和の初めのころまでは、まだまだ、馬が、そのあたりで、運搬・交通に供されていたのであろうと思われる。その石碑には、建立の由来が書かれていなかった。どういう理由で、施主・若林詮之助さんが、その観音を建てたのかは、分からない。調べてみると、ひょっとしたら、何か分かるかもしれないが。言えることは、その馬頭観音が、この地域で、ヒトと馬の関係が深かった時代の跡を示しているということである。馬頭観音は、末崎真澄(西本豊弘編『人と動物の日本史(1)動物の考古学』吉川弘文館、2008年)によれば、以下の3つに分類される。①平安時代中期以降盛んになった六観音信仰のなかで、畜生道を救済する観音として成立したもの。②馬をはじめとして畜類の守護神として、室町時代以降に、造立されたもの。③②の延長線上に、江戸後期から昭和の前半までに、馬の安全や馬の冥福を祈るものとして、路傍に建てられたもの。写真の馬頭観音像は、③にあたるものと思われる。その像が建てられている場所は、はっきりとしないが、旧街道の分かれ道だったのではないかと予想される。ところで、町田の小山田という地名は、鎌倉時代以降に、小山田氏の荘であったことから来ているらしい。その後、小山田氏は、甲斐の武田と婚姻関係をつうじて、甲斐に移り住むようになり、武田勝頼の代に滅ぼされたとされる。以上、短い覚書として。



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