「心にかかる雲ひとつだになし!」という心境で、大学の春学期の授業を終えたと思った矢先に、医療人類学の本づくりにおいて、まだできていない章の仕上げまでを引き受けるという、とんでもないことになった。若手のひとりからは、「正解がなかなか見えないので、共同執筆でも」という、あやふやな申し出があり、他のひとりは、アフリカで調査中で、病気のためか(?)、ここしばらく音信不通なので、締め切りが、目の前に迫っている状況で、わたしが、その二本の論文の仕上げを、どうしてもやらなければならないことになった。引き受けたこと、いや、引き受けざるを得なかったことを、いまでは、たいへん後悔している。とにかく、しんどい。
昨晩から、パソコンの前に座って、キーボードを乱打しつづけているが、まだ、完成は、カーブの先という状況である。仮眠したときにも、夢のなかに、パソコンの画面と<医療>や<病気>という単語が、出ては消え、消えては出てきた(ような気がする)。
わたしが大幅に改編しつつ執筆しているのは、ひとつは、「病気と文化」の章であり、もうひとつは、「近代医療のグローバリゼーション」の章である。後者では、<帝国医療>というタームを手がかりとして書いている。
頭のなかは、すでに、ぼんやりとしてきているが、言ってしまえば、<帝国医療>とは、わたしたちが、全幅の信頼をおいて、あたりまえのものとして捉えている、われわれの医療、すなわち、近代医療の<外部>へと踏み出て、それについて考えてみるための概念であり、分析的な想像力なのである。集中して書いてみて、分かったのは、確認できたのは、その点(のみ)である。
法律や政治、学校教育など・・・、わたしたちは、そういった事象・現象がはらむ様々な問題にぶちあたり、よりよき解決を目指すが、じつは、その解決が、問題を、より複雑化するという事態がある。そういったときに、法律や政治、学校教育などは、その<外部>へと出るための分析的な想像力とでもいうべきものをもっているのだろうか?近代医療に関していうならば、<帝国医療>が、それにあたる。
いかん、ちょっとサボってしまったが、ふたたび、本づくりの作業に戻ろう。明日のいま頃には、でき上がっているだろうか・・・
(写真は、ボルネオ島のカリス社会のシャーマニズムのようす。ドラのリズムにあわせて、正装した女性シャーマンが踊っている)