たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

精神を病むということがないということ

2008年04月26日 22時45分04秒 | 医療人類学

うつ病やパニック障害で悩んでいる人たちがいる。それは、心の問題ではなく、神経生化学的な問題であるともいう。投薬をすると、副作用があるとも聞く。こころの病いを抱えているという言い方をすることがあるが、その深い悩みや苦しみについては、わたし自身は、十分に知ることはできない。それらは、精神科で処方されるがゆえに、精神の問題ということができるのかもしれない。かつて、わたしが調査研究をしたカリス社会には、狂っている、精神病であるとされるような人たちがいた。それは、情緒不安定となり、突然暴れて人を傷つけたり、来る日も来る日も道に石を積み上げるというような、逸脱的な行動をする人たちであった。なかには、町の精神病院で処方してもらった人がいた。ところが、精神病の地球上の遍在の可能性という点から驚くべきことに、プナン社会には、そういった精神病、こころの病いを抱えているような人が存在しないのである。少なくとも、わたしはそういったプナン人に会ったことがない。西洋の精神科医が見て、精神病理であるとカテゴライズした「文化依存症候群」(ラター、アモック、北極ヒステリーなど)を除いて、近代以前の社会には、はたして、うつ病などの精神病理が、存在したのだろうか。おそらく、プナン社会のように、そのようなものが存在しないような社会というのは、数多かったのではないかと思われるが、たぶん、外来の観察者は、精神を病むことがないという、<非在>の状況には、目を向けなかったのではないかと思われる。では、プナン社会には、現在においても、なぜ精神を病むというようなことがないのであろうか。まず、精神病、こころの病いというようなタームがない、という点があげられるかもしれない。さらに、わたし自身の経験から言えば、プナン社会では、独りで思い悩み、進むべき道を考えあぐねるというようなことがない、できないという状況があるというのも、そのことに関わりがあるのかもしれない。のべつ誰かがわたしの傍にいるし、わたしのことを気にしている。いま、精神病を病むということがないということ、精神病の<非在>について考えるということは、医療人類学の盲点であったのかもしれないと思う。

(アレット川)


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