たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

道がない

2010年05月21日 23時45分47秒 | 自然と社会

唐突ではあるが、わたしは道によく迷う。歩いても車でも、道をよくまちがえる。人生の道も、かなりまちがえていると思う。しかし、ふと想う。道とは何ごとか。ある特定の場所がある。道とは、そこに行くための空間である。あるいは、家がある。その隣に家を建てる。その二つの家の前には、あるいは二軒の家を結ぶ道ができる。そのようにして、建物があってはじめて道ができる。もともと道などなかったのだ。場所と場所を結ぶものとして道ができたのではあるまいか。道路地図なるものを、いったい誰がいつ作ったのだろうか。方位をベースにしながら、上を北に下を南に、右を東に左を西に。建物や事物などが、その配置図のなかに位置を占めるようになる。わたしたちは、鳥の眼によって、その地図を眺める。A地点からB地点へと地図の上を移動するように、実際の空間を、道をつうじて移動するのだ。そういったことをやっている鳥になったわたしたちは、じつは、ずいぶんと滑稽なことをやっているのではあるまいか。狩猟民プナンの歩き方、位置取りの仕方を見ていると、そういうふうに思える。彼らの歩き方の基本は、目標物があれば、それに向かって一直線に進むというものである。一途である。障害物があったとしても、山刀で叩き切り、最短距離を進む。もちろん、プナンには方角・方位はない。鳥の眼をもたない。あくまでも、人間の眼をもって、直線距離を進もうとする。そこには、徹底して、道はない。道はそのときできたとしても、すぐに植物が繁茂し、存在しなくなる。では、彼らは、いったいどのようにして、自分の位置取りをするのだろうか。彼らは、もっぱら川の上下(上流と下流)を意識しながら、自分の居場所を測りながら、位置取りをしている。大きな川に注ぎ込む小さな幾つもの川。ブラガ川に注ぎ込むアレット川とクレンゴット川。いま自分は、アレットとクレンゴットの間を上流のほうに向かっていて、これからクレンゴットを越えて対岸に出ようとしているというふうに。位置取りはするものの、ジャングルのなかに道があるわけではない。人が通った跡は、数日で消えてしまう。さらに、プナン語の道は、マレー語からの借用語である。野鶏の通り道があるという言い方は、プナンはしない。このあたりを野鶏が通るかもしれないので、罠を仕掛けるという言い方をする(写真は、罠猟)。はたして、道とはいったい何なのか?道というものが、あらかじめ人間世界に存在していたわけではないのだろう。できの悪い道論として。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿