たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

比較民族誌、ギブソン、バフチン、トーテミズム:デスコーラの英語は難物だ!

2009年06月21日 12時16分53秒 | 自然と社会

第七回「自然と社会」研究会報告2
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/04d028d47eb8dd67edf61c2e28791cc4
以下の続き
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/9b7637e8149a674861f29e729d7dd92b

1.デスコーラらによる『自然と社会』の「序」

◆引き続き、一般命題へと踏み込むための中間的な立場が取り上げられる。エレン、デスコーラらは、自然と人間の関わりを、特定社会の認識原理とでもいうべきものを出発点として考えているようだ。さらに、デスコーラたちは、一見陳腐なものに見える<比較民族誌研究>に、新たな光を与えている。民族誌経験そのものの豊かさが、人類学者の想像力だけでなく、一般的命題への意欲を発火させる。最後に、デスコーラらは、生態人類学の再検討という課題へと踏み込んでいく。ギブソンのアフォーダンスやバフチンのトランス言語学を援用しながら、自然と社会、環境と人間の関わりを、トランス生態学という視点で捉えることの重要性を指摘している。自然は書物ではない。人間と自然は、お互いに、その一部である。自然と人間は隔てられない。それらの相互作用の累積的結果への視点が求められている。

 ◎デスコーラとパルソンによる「序」『自然と社会』PP.16-19の自由訳
(この部分の担当者の訳出作業は、わたしの個人的な理解の大きな助けとなった点を記しておきたい)

 エレンもまた、自然の位置づけについての問題が、実践的な型と象徴的な表象を生み出す基礎にあたる最低限の想定を見定めることで接近できるという仮説を推し進めた。彼が主張するように、自然についてのすべてのモデルの背後には、三つの認識的な原理の結合がある。①人間を自然へと含める「物事」およびこうした「物事」へと割り当てられた特徴によって、自然についての帰納的に構築すること。②人間の領域の外部の空間の領域についての認識。③本質によって現象を理解する隠喩的な強制。これらの軸のそれぞれの相対的な重要性とその内的な非対称性は、自然についての観念化および特定性に関する説明において異なっている。同じようにして、デスコーラは、それぞれの社会が、環境との関係において、特定のあり方を対象化するような、実践に関する暗黙の図式を説明する変形文法的モデルを説いている。一つ目は、同定の様式、あるいは存在論的な境界が、アニミズム、トーテミズム、あるいは自然主義のような宇宙論的なシステムにおいて生み出され、対象化されるようになるプロセス。二つ目は、略奪あるいは保護のような互酬性の原理に従って、ヒトおよび非ヒトの間の領域において関係を組織する相互作用の様式。三つ目は、世界の原初的な構成要素が、社会的に認められるカテゴリーとして表象されることになるような分類の様式(基本的に隠喩的な図式と喚喩的な図式)。

特定の社会について、自らの経験の複雑と難解さを、一般的な命題へと翻訳することの困難さを認めた上で、この本のほとんどの執筆者たちは、それにもかかわらず、たんなる地域的な人間―環境システムの記述を越え出ていこうとする意欲を示している。逆説的に、比較のプロジェクトに新たな信頼を求めることは、民族誌的な経験そのものの豊かさのなかから生まれるものである。すなわち、ある研究者がもつ特定の社会についての民族誌的知識と比較しうる、別の人類学者が世界のさまざまな場所で描き出すような、特定のパターン、実践のスタイル、一連の価値とを、共有することになるという認識から。そのような認識は、民族誌的なナラティブのスタイルが広い範囲で絶えず変化していることによって、おそらく力が得られる。従来のモノグラフを構造化するような普遍的なカテゴリーを見捨てた上で、人類学者たちは今日、ある社会についての自らの解釈を伝達するために、彼らが使用する分析装置を選び出すさいに、より個人的に、さらには、より想像力豊かになっている。かつては図らずも、集合し、類似していたものは、最初の見かけでは、結びつくことがない民族誌的説明の混沌状態に見えたかもしれない。言い換えれば、民族誌は、特定の事項に焦点を当てる一方で、民族誌的な蓄積は、比較への関心に新たな火をつけることになった。

この本の寄稿者たちは、さまざまな観点、アプローチ、および理論的立場をとる一方で、多くの重要な問題に関して、概して現れる一致した見解がある。もっとも重要なことは、著者たちが、自然と社会の界面とそれが必然的に招く理論的課題を共有しているということである。人類学は、範疇が広く、自然科学と社会科学の両者へと接近するが、すでに見たように、それは、根本的な矛盾に悩まされてきた。人類の歴史の最初の部分は、進化および環境の説明で行われるが、それに続いては、人類史における環境の役割が無視されている」。自然と社会の界面を再検討することは、生態人類学を再検討することである。とりわけ、それの人間と環境の生態人類学の概念について。生物学と人類学を分離することを主張するような、深く画一された生物学的および人類学の伝統は、経験的および理論的な土台において、ますます挑戦を受けるようになってきている。ベイトソンは問題を、杖を持つ盲目の人物の例を用いることで確認している。「どこから、わたしたちは始まるの?わたしたちの精神のシステムは、杖の扱いによって決まるの?わたしの皮膚によって決まるの?杖を半分上げることで始まるの?しかし、こんなのは、バカげた問いだ」。たしかに、そのとおりであろう。要点は、人、技術、および環境について、的確な境界を決めることではなく、重要な領野、ベイトソンの言葉では、メンタルシステムへと注意を向けることなのである。語源的には、環境の概念は、取り巻いているものということであり、それゆえに、厳密に述べれば、環境は、取り巻かれているものを除いたすべてのものを意味する。 しかし、ジェームズ・ギブソンによって発展させられた生物学的な視点が、与えられるならば、意図的な環境という現象学的な概念を想定することが重要なこととなる。環境の「アフォーダンス」は、その意味、あるいはそれが感知される方法によって、さまざまに変形される。このことは、解釈主義者的な意味における多元的な環境のことを言っているのではない。自然とは、一連の書物でもなければ、あるいは、仲介的な文化であるテキストをつうじて情報を与えられるような書物の観念(あるいは、「読み」でもない。むしろ、ヒトと環境は、それ以上還元できないようなシステムをもっている。

ヒトは環境の一部であり、そのようにして、環境もまたヒトの一部なのである。 この本の多くの寄稿者たちは、この線に沿って生態人類学に向けた議論をしている。同様の視点は、言語に関して、バフチンによって発展させられてきた。彼が主張したように、話者を、発話コミュニケーションにおける受動的なパートナーとして描く実証的な言語学の観念を乗り越えることが重要なのである。バフチンは、「トランス-言語学」のアプローチを提唱した。それは、自律的な言語学についての抽象的な客観主義に対する強烈な批判を提供するだけではなく、言語に埋め込まれた本性について、再表明するアプローチである。彼にとって、言葉は、「その射程の全行程をつうじて、さらにはその要素のすべてにおいて、すなわち、音声的なイメージから抽象的な意味にいたるまで社会的なのである」。バフチンは、個人と社会とをラディカルに隔てることを拒否して、言語におけるすべての語は、話者の先行経験とスピーチコミュニティとの相互作用の累積的結果であると主張した。おそらくわたしたちは、バフチンの観点を引いて、トランス生態学に関して語るべきである。人間の居住、すなわち人のオイコスの社会的な本性に関して、住むことと巻き込まれることの観念を強調するために。

2.デスコーラ「自然と社会を超えて」

 ◆ラドクリフ=ブラウンのトーテミズム論は、ヒトが自然の種に対して打ち立てる関係は、ヒト同士で打ち立てる関係と同様のものであり、二つの関係のセットが、彼らの社会構造上に配置されるというものである。他方で、レヴィ=ストロースのトーテミズム論は、種間の非連続性が、ヒトの社会的分節を組織するためのモデルとなっているというものである。この両者に対して、デスコーラは、アマゾニアの先住民社会における「自然と社会を超えた」コスモロジーの組み立て方を探ろうとしている。

◎デスコーラ「自然と文化を超えて」pp.1-2.

いまでは、その理論の継承者がいなくなったと言われているラドクリフ=ブラウンの社会学的なトーテミズム理論は、数年前に、わたしに霊感を与えてくれた。そのとき、わたしは、アマゾンの先住民による動物の特定の扱いを理解しようとしていた。活発に食糧として狩られ、あるいは、捕食者として恐れられていたのだけれども、動物たちは、それにもかかわらず、人間が社会的ルールに従って相互作用することができ、また、実際のところそうすべきヒトであると考えられていたからである。

人間と自然の種の間の関係を概念化するときに役立つ標準的なモデルは、レヴィ=ストロースの理論である。すなわち、種の間の非連続性がヒトの社会的な分節を組織するための精神的なモデルとして機能するという考えである。アマゾニアでは、ヒトと非ヒトのちがいが、自然のものとしてではなく、程度のものとして考えられており、そのため、ラドクリフ=ブラウンのトーテミズムの記述が役に立つ。ラドクリフ=ブラウンを引用すれば、「自然の秩序は、社会の秩序の一部になる」。ラドクリフ=ブラウンによれば、そのような融合が可能なのは、アボリジニが自然物および自然現象に対して打ち立てる関係は、彼ら自身の間で彼らが打ち立てる関係と同様のものであり、二つの関係のセットが、彼らの社会構造の上に包み込まれるからである。こうした思考は、アマゾニアにおける諸現象の類型をうまく説明する。ラドクリフ=ブラウン流の社会学的トーテミズムは、そこではありふれたものではなく、さらには、人間として扱われる動物と個人との間の関係の形式とつねに結びつけられながら見出されるので、オーストラリアのケースに対するレヴィ=ストロースの理論を維持しながら、わたしが、想像力によって「アニミズム」と名づける、実際には、自然種との非トーテミックな関係に重きを置くラドクリフ=ブラウンのトーテミズム論を用いながら、ある概念上のハイブリッドを構築した。レヴィ=ストロースは、人間同士の社会関係を描き出すのに、自然種の間の非連続性を用いたが、ラドクリフ=ブラウンは、人間と自然種の間の関係を描き出す社会的実践を形成するような基礎的範疇を用いたのである。

両方の理論は、アマゾニアのケースには、あてはまらないのである。そこでは、自然と社会の区別は行われていない。そうした自然と社会の二分法は、じつは、オーストラリアのトーテミズムにおいても無意味である。レヴィ=ストロースは、そのことを『野生の思考』においてすでに指摘している。「それがもはや他のトーテム集団によってではなく、遺産としてみなされているある種の示差的特徴におって体系を形成する傾向にある」「二つのイメージ、一つは社会的なもの、一つは自然的なもののこの二つのイメージの代わりに手に入るものは単一のものであるが、断片化している社会的―自然的イメージである」(『野生の思考』)。

(写真は、躍動美あふれる洞窟壁画;サラワクのシレー洞窟)


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ハイブリット的あまりにハイブリット的 (三代目のアルセーヌ)
2009-06-30 04:15:25
ある精神病院に訪れた時、病院の入り口で、精神病者が、入口においてあるベンチの上で横になって何かうわ言を言っているのを目にした。しかし、その一方で、病院内では、最新技術の方法論を駆使した、精神疾患に対する治療が行われている。

私は、その奇妙な対置に何かおかしさを覚えた。

と同時に、何か人類学的な興味関心を抱かせた。

それとともに、頭を過った坐禅をしていた時、常闇にこだまする水滴の音が私に何か霊感を与えた。

ラトゥールによれば、近代人は、科学的事実を構成するものは、あくまで、超越的な自然であるといいながらも、実際は人間あるいは社会を総動員して、科学的な事実を作り上げる一方で、社会を構成するのは、人間の自由意思であるといいながらも、実際は、自然を総動員して社会を構成する。そのうえで、そうした「自然」と「社会」の切り離しによって、現象を読み解こうとする。つまり自然と社会の間の中間領域において生み出されている「ハイブリット」を、明晰な形での「自然と社会」の二元論に押し込めようとするのが、近代の特徴とした上で、そうした「純粋な自然」、「純粋な社会」と言った二つの柱によって、しっかりと固定し、「近代」を形づくり、まさに「自然」と「社会」の「切り離し」こそ近代の特徴的な知であると指摘している。

デスコーラが「自然と文化を超えて」の中で、指摘するアマゾニアトーテミズムのケースは、まさにそうした「自然」と「社会」の「切り離し」とは全く別のことが起きている。
そこでは、自然と社会の区別は行われていない。しかしながらラドグリフ=ブラウンによるオーストラリアのトーテミズムの指摘は、ラトゥールを援用すれば全くの無意味に思えてくる。デスコラはレヴィ=ストロースは、そのことを『野生の思考』においてすでに指摘しているとしている。「自然」と「社会」における二つのイメージ、一つは社会的なもの、一つは自然的なもののこの二つのイメージの代わりに手に入るものは単一のものであるが、断片化している社会的―自然的イメージである」

さらに、このような指摘は、1949年にレヴィ=ストロースが書いた「自然と文化」の中でも同様な事を言っている。

「野生児」、「オオカミ少年」、「ヒヒ少年」と言った「自然」が、すでにメタ認知的な分割を行っている。つまりそこでは「自然」と「社会」の二元論による「規則」を持った目的論的意思が内在してしまっている時点で、もはや自然ではなくなってしまっているのである。
 それに対して、サルたちの社会生活には、明確な規範を形成する準備が整っていないという。こうした特質におけるハイブリットこそ、自然と社会を超えた先に待つものではないのだろうか?

そこで再び、精神病院に戻れば、狂気(自然)という定義とそれに対する近代医療における科学実践(社会)という奇妙な対比は、ハイブリットそのものであると思える。にも関わらず、近代は、狂気(自然)をタブローに当てはめ、明確な形で自然と社会の「切り離し」を行う。

精神病院こそ、あまりにハイブリット的なのではないだろうか?
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