ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

奈良の山あれこれ(86)~(87)

2015-10-18 08:33:01 | 四方山話
*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*
 
86)辻堂山   「オオカミが避けて通るお堂」
吉野町宮滝から吉野川沿いに南西に走る国道169号線は、白川渡で南に転じて大迫ダムを過ぎ新伯母峰トンネルに入ります。その手前で右に折れ、ワサビ谷を渡り曲折しながら東に向かう道路が小さいトンネルをくぐる処が伯母峰峠です。昔は東熊野街道と呼ばれた道が伯母谷村から伯母ヶ峰を越して、堂ノ森を下って北山の河合に下っていました。非常な難路で「和州吉野郡群山記」には『伯母峯打越し六里半なり。伯母谷より辻堂まで三里半の山中にて昼寝などすれば、もと来し道をわすれて先へ行かずして、跡へ戻り帰る事ありという。この峯通り、前後同じ道あり。ゆえにまよひ行く者なり。俗にそれを、魔にまどはさるるといふ。』とあります。
 


今は伯母峰峠からは大台ヶ原ドライブウェイが南東の日出ヶ岳へ向かっていますが、辻堂山はドライブウェイを少し走った南側にある円頂型の美しい山です。
この山は昔、「堂ノ森」と呼ばれていました。ここから西の天ヶ瀬村に下る道があり、そこに地蔵堂が立っていました。「群山記」には『この地蔵を狼地蔵という。狼この前を通る事あたはずといふ』と書かれています。(今は新トンネル南側の和佐又谷に移されました)
 
 
私たちは西大台周遊の前に、非常に安直にドライブウェイの辻堂林道入口から往復しました。林道を10分ほど行くと右手に取り付き点があり、木の枝に小さな赤いテープが捲いてありました。
 


疎らな笹原の中、微かな踏み跡らしきものを探りながら数分登ると、細いがしっかりした山道に合流。



右に折れて登り着いた辻堂山は三角点のある狭い山頂で、樹木に囲まれて展望はありません。往復1時間足らずの実に手軽なハイキングでした。

(87) 伯母ヶ峰 「山姥の住んでいた山」
 
吉野川と北山川の分水嶺の一つ伯母ヶ峰は、前項(辻堂山)でご紹介したように、昔は頂上近くを東熊野街道が通っていました。「和州吉野郡群山志」に『土俗の伝説に、昔伯母峯山中に白髪なる伯母の住みて、人の見る事もありしと云ふ。』とあります。西原へ下る大台辻(現在の大台辻ではなく、辻堂山からの支尾根と、西からの稜線がドライブウエイで出会うところ)は毎年12月20日は通行禁止でした。「郡山志」に『牛鬼の出て熊野海に潮踏みに行く。その時は辻堂に戸を閉じて、これを見る事を禁ず』とあります。 

ある年、熊野の人が禁を破って峠に来ると、髪を乱して色青ざめた女に出会いました。道端に下ろしていた乳飲み子を「わが肩に負ぶわせてくれ」と言われて、そうすると「このことを里に下りても人に言うな」といいます。正月になって人に話したところ、その夜のうちに死んでしまったそうです。『古へは大台姥峰に至る人、度々山姥に逢ふ事ありし‥』と書かれています。このことから山名は「伯母峯」=「姥峰」から来ていると思われます。

伯母峰峠の怪物としては、やはり末の20日に出る、一つ目一本足の「一本たたら」が有名です。今はなき大台教会の主、田垣内政一さんから、ランプの灯りの下で聞いた話は真に迫って怖く、今も忘れられません。
 
伯母峰峠の一本タタラ

他の地域では「だたら」と呼ぶことが多いのですが、大台周辺での村々では「たたら」と呼んできました。土地によって少しづつ違う話が伝わっていますが、ここでは「奈良県史」、「上北山村公式HP」、角川書店版「奈良の伝説」、大正11年大阪朝日新聞刊「山の情話と伝説」や大台教会の田垣内政一さんからお聞きした話などを、私なりにアレンジしてみました

 
昔、伯母峰の南山麓・天ヶ瀬に射場兵庫という武士がおりました。
毎日のように愛犬アカを連れて山に入り、溝筒の鉄砲で狩りをしていました。ある日、辻堂山手前の小豆横手というところで、アカがけたたましく吠え立てたと思うと、笹原が動き出して背中にクマザサが生えた大猪が襲いかかってきました。兵庫は何発も打った挙句、猪の足を打ってようやく倒しましたが、毒気にあてられたのか自分も気を失ってしまいました。耳元で鳴くアカの声で気が付くと大猪が倒れていましたが、とても運ぶことが出来ず、そのまま家に帰りました。翌日、見に行くと猪の姿はなく、傍らの木の幹に鉄砲の弾痕がいくつも残っていました。
 それから何日かして、紀州・湯の峰温泉に足の怪我のために湯治に来た野武士があります。宿の離れを借りて、主人に「ワシの寝ている間は誰も来てはならぬし、部屋も覗くなよ」と告げると大イビキをかいて寝てしまいました。主人が草鞋(わらじ)を揃えに行くと、藤蔓で編んだその長さは一尺八寸(68cm)、重さは二貫八百(10.5kg)ほどもありました。しかも動かぬように、緒を柱の下の礎石へ結び付けて抑えてあります。不審に思って部屋を覗いてみると、背中にササを生やした大猪が 八畳の間一杯に寝ていました。
 朝、目を覚ました客に呼ばれて、やむなく離れに行くと「何を隠そう。我は伯母峰に住む猪篠王(いざさおう)という。このほど天ヶ瀬に住む射場兵庫というものに討たれてこの怪我じゃ。兵庫は怖くないが、あの溝筒の鉄砲と犬には敵わない。お前は見るなというたに姿を見たからには、火筒と犬をわが手に入るように何とかせい。そうすれば命は助けてやろう」と怪物はいいました。震え上がった主人は天ヶ瀬に行って、兵庫と犬が本当にいると知り、鉄砲と犬を買い取ろうとしますが兵庫はもちろん、聞き入れません。
 その後、猪篠王は兵庫に因縁の辻堂山で一騎打ちを挑みます。今回は兵庫も弾を打ち尽くして危うくなりましたが、最後に残った「南無阿弥陀仏」の文字を刻んだ「お守り玉」でようやく怪物を倒しました。
 しかし、猪笹王の亡霊は一本足の化物となって、伯母峰峠を通る旅人を取り喰らうので、この辺りはすっかり寂びれてしまいました。ある時、丹誠上人がこの話を聞き「日限の地蔵さん」を辻堂に安置して、祈祷を行いました。「一年に一度、果ての二十日(12月20日)にだけは自由を許す」ことを条件として、猪篠王の霊を経堂塚に封じ込め、それ以来、他の日には旅人が安心して峠を通行できるようになりました。現在も、射場兵庫の鉄砲を祀る神社が天ヶ瀬にあるということです。

異説を並べておきます。1、犬の名は「ブチ」 2.兵庫と猪篠王の最初の邂逅は偶然でなく、以前より峠の通行人を襲っていた化け物退治を、村人が兵庫に依頼した。 3.湯治場は摂津の「有馬の湯」 4.二度目の一騎打ちはなく、湯治に来たのは猪篠王の亡霊だった。 5.妖怪もしくはその霊を封じ籠めたのは大台ヶ原の牛石… 等々。
 
2007年7月、釈迦ヶ岳から下山して和佐俣ヒュッテに泊まった翌朝、帰宅前に伯母峰園地に車を置いて伯母ヶ峰に登りました。



旧伯母峰トンネルから和佐又に通じる林道の100mほど先で、右手斜面にかかる長くて急な木の階段が登り口になります。



尾根を回りこんで大岩がある処で、北へはっきりした支尾根が延びていますが、伯母ヶ峰へは東へ進みます。なだらかな尾根道を行くと小さな台地状の所があり、ここから短いが急登で1262mピーク。背丈を超すスズタケを漕いで、コブの上にある農林省伯母峰中継所を過ぎ、伯母ヶ峰の三角点(1358m)に立ちました。



杉の木などに囲まれた薄暗く、無展望の山頂でした。