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ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

私の関西百山(17) 藤原岳

2013-11-07 10:52:09 | 私の関西百山

この藤原岳から18.竜ヶ岳、19.釈迦ヶ岳、20.雨乞岳、21.御在所岳、22.鎌ヶ岳、23.入道ヶ岳までを「鈴鹿セブン・マウンテン」と呼ぶ。1964年に近鉄などの主催で鈴鹿の山で登山大会が実施された(以降、この大会は34年間続いた)ときに対象として選ばれた7つの山である。

藤 原 岳 (1140m)  <鈴鹿山脈>
【ふじわらたけ】全山石灰岩からなり、頂上台地は美しいカルスト地形を見せる。花の名山として知られ、特に早春は八合目から山頂部にかけてフクジュソウやカタクリが咲き乱れる。展望丘と呼ばれている南側のピーク(1140m)と、最高点の天狗岩(1171m)からは、文字通りの大展望が得られる。



1989.5.14

二人で始めて大貝戸道から頂上に登り、カルスト台地の平頂丘を天狗岩まで散歩した。下りは聖宝道を下った。イチリンソウ、オドリコソウ、ヤマブキソウなどの群落が目立った。

 展望丘より天狗岩を見る

1993.6.6

89年と同じコース、時期が悪く、ニシキウツギやオドリコソウが見られただけだった。



1996.4.6 

伊豆天城の万三郎山で知り合い、静岡県の青笹山に案内して貰った島田市のMさんらと聖宝寺道を登った。

 セツブンソウ

残雪面の上や雪溶け水が流れる道をフクジュソウやユキワリソウ、セツプンソウの写真を撮りながら楽しく登った。藤原山荘裏手の石灰岩が散らばる丘は、踏まないようにするのが難しいほどのフクジュソウの大群落だった。展望丘に登ったあと、大貝戸道を下った。



1996.4.30 

この山の花に魅せられたMさんが再訪。雪が溶けて歩きやすくなった一ヶ月前の道はイカリソウ、イチリンソウ、ニリンソウ、ミヤマカタバミ、エンレイソウなどが花盛り。前回は雪に覆われていた谷あいに今は春の息吹がいっぱいだった。八合目では待望のカタクリの花が現れた。



天狗岩までの散在するドリーネの間の散歩では、満開のフクジュソウの大群落が連続している。この夜は聖宝寺下の民宿「翠嵐荘」で名物の鱒料理で静岡の銘酒を味わいながら山の話しに花を咲かせた。

 

2004.5.8
8年ぶりに訪れて、まず西藤原駅の変貌に驚いた。ウィステリヤ鉄道の表示があり、駅舎が機関車の形になっている。Wisteriaとは藤原町の町花・フジの花のことで、駅そのものを小テーマパークにしているそうだ。聖宝寺道の花は時期が遅かったのか、すっかり少なくなっていて、天狗岩へのカレンフェルトの道で見事なイチリンソウの群落を見ただけだった。展望丘への道は笹が切り開かれ、見違えるほど整備されていた。


晩秋の奈良公園(2013.11.05)

2013-11-05 18:06:12 | 旅日記

連休明けの秋晴れの日。正倉院展に行きました。

高畑の民間駐車場に車を入れて、浮見堂の橋を渡って会場へ…。

まだ早かったので10分ほど並んだだけで入場できました。

たくさん見た出陳品のうち、主なものを絵葉書から構成してみました。左上から時計回りに平螺鈿背円鏡、花喰鳥刺繍残片、蘇芳地金銀絵箱、投壺と投壺矢。

漆金薄絵盤、鹿草木夾纈屏風、漆金薄絵盤投壺の部分、鳥毛帖成文書屏風。
今回、一番人気のあったのは漆金薄絵盤で、すぐ傍で見るには別の列に並んで1時間待ちということです。それほど熱心な美術愛好家でもない変愚院夫婦は、並ばずに縄張り?の外からキリンに変身して見ましたが、結構よく鑑賞できました。



地下通路を通って、なら仏像館、中国古代青銅器館もゆっくり見学して外に出ました。2時間近くの鑑賞で少々疲れたので、登大路を渡って向かい側の
奥村記念館で休憩。



屋上展望所からの眺め。大仏殿のシビが金色に輝いています。右は南大門。



「東大寺門前夢風ひろば」をしばらく散策して南大門へ…

大勢の鹿クンが観光客に餌をおねだりしていました。



二月堂参道よこから鏡池の畔を巡って…

今日は大仏殿には入らずに外から拝んで若草山の方へ…素晴らしい紅葉です。

飛火野の紅葉も進んでいます。駐車場に帰ると通路にまで車がぎっしりで驚きました。
さすが秋の奈良は外国人も含めて大勢の観光客で賑わっています。


私の関西百山(16) 御池岳

2013-11-05 08:47:08 | 私の関西百山

御 池 岳 (1247m)         <鈴鹿山脈>
【おいけだけ】鈴鹿山脈の中央部、三重県いなべ市と滋賀県東近江市、多賀町にまたがる大きな山である。山頂部は東近江市永源寺町に所属して愛知川の源流となっている。山名からも想像されるように古来より、雨乞い儀礼が続けられてきた山である。鈴鹿山脈の最高点は、この山中(丸山)にある。コグルミ谷からの登路は距離が短い上に、春には花の多いことで知られている。



1993年5月4日、ふたりでコグルミ谷を登る。登山口から15分でタテ谷との出合。この辺りからイチリンソウ、ニリンソウの白い花が目を引く。はかにヤマネコノメ、フモトスミレ、ショウジョウバカマ、ミヤマカタバミ、ムラサキケマン、ヤマエンゴサク、エンレイソウやキクザキイチゲなど美しい花を見ながら登る。苔蒸した大きな岩の所から沢を離れ、左の山腹の登りになる。長命水の水場を過ぎてジグザグに登る頃から、カタクリの花が次第に多くなる。白瀬峠への分岐のある小尾根に登り着く頃には、道にまではみ出して踏みつけないかと心配になるほどの群落である。

尾根を越えて緩く下り、真ノ谷出合に着く。この辺りの緩斜面にはパイケイソウの緑の葉が一面に広がり、和やかな感じの所だ。直進すれば鈴北岳だが、ともあれ最高峰の丸山を目指す。

ここからの上りが雪解けのぬかるみで結構、時間をくった。登りきると奥の平との分岐で、右へ僅かの登りで丸山だった。丸山からボタンブチへの道は、もの凄いスズダケの密生で、それを漕いで往復するのにかなり時間がかかった。

『全身がすっぽり笹に埋まり、必死で掻き分けて道を捜しながら進む難行軍。おまけに深く抉られた道に水が溜り、その上を笹が覆っているので腰辺りまでどろどろになる。腕がだるくなり悲鳴を挙げたくなる頃、やっとドリーネのあるボタンブチに飛び出した。この薮漕ぎで時間を喰い、予定の鈴北岳はあきらめざるを得なくなる。長命水で喉を潤した他は、どんどん駆け降りて駐車場所に帰った。

<タイム> 登山口9:45…10:05タテ谷分岐…10:25長命水…10:55白瀬峠への分岐…11:25真ノ谷分岐・‥12:00丸山頂上…12:30ボタンプチ13:15…13:45真ノ谷分岐…14:30長命水14:40…15:00登山口


私の関西百山(15) 霊仙山

2013-11-04 11:03:07 | 私の関西百山

霊 仙 山 (1083.5m)   <鈴鹿山脈>
【りょうぜんやま】鈴鹿山脈最北端にある。全山が石灰岩からなるため、山頂部には笹原の中に石塔やドリーネが散在している。また山麓には洞窟や鍾乳洞が多い。7世紀終わりに山頂に建てられた霊仙寺で米をといだ水が溜まったのが「お虎が池」で、それが流れてお伊勢白水(漆ヶ滝)と白水谷(谷山谷)となったという伝説がある(日本山名辞典による)。
「霊仙とは惟喬親王とほぼ同じ時代に生きて、六年間唐に学び、日本に帰ろうとして、彼地で暗殺された高僧の名であるという。」(田中澄江「花の百名山」)

 変愚院24歳

山を初めて間もない1958年12月、大学の同級生Nと二人で行ったのが、この山に登った最初である。いずれは旧版「近畿の山」に挙げられた全山を踏破する意気込みで、同書の冒頭に紹介されたこの山に、まず狙いを付けた。前日、米原の旅館に泊まり、一番の列車、バスを乗り継いで上丹生から歩き始め谷山谷の潜流を登り、柏原道を醒ヶ井に下った。途中、「こうもり穴」を覗きに行き、頂上からは白山と思われる雪をつけた頂きが見えたのが印象に残っている。

 

33年ぶりの再訪は妻とマイカー利用。早朝5時に家を出て上丹生に車を置き、歩き出す。屏風岩を見るとようやく山道らしくなる。勾配の緩い、歩き易い道が谷山谷の左岸に続く。流れが伏流になった地点から谷に下りて、真白で丸みを帯びた美しい大きな石灰岩の間に道を拾っていく。また流れが現れ、「一の谷」の道標。左岸の直ぐ頭上に、見覚えのある「こうもり穴」が不気味な口を開けている。ここから、右に左に忙しく河原を渡り返す。



「二の谷」を過ぎると右岸に「廊下岩」があり、その下をトラバースする。この辺りも美しい流れがある。



再び伏流になり石の門になっている「くぐり岩」の間を抜ける。



急斜面を登り、崩れた斜面を高捲いたりしながら進み、「三の谷」の流れを横切ると、明るく開けた「漆ヶ滝」の下に出る。豊かな水量の滝を見ていると、これ程の水が伏流になるのが不思議に思える。対岸の山は、緑の地にスカーレットの紅葉模様の錦を纏い、思わず歓声が出るほど美しい眺めだ。



右手の山腹に取り付く。急な登りは僅かで滝の上を高捲く水平な道になる。左に連続する美しい滝を見下しながらしばらく行くと、右手の支沢に入る。がらがらの涸れ沢の岩梯子のような急な登りで息を切らす。勾配が弱まり、左へ大きく捲いてクマザサの原となり、尾根に出ると「四丁横崖」の標識のある柏原道の八合目。やがて笹の背も低くなり、次の高みを登りきると経塚山の頂上だった。



行く手に西南尾根、最高点から右に本峰へ続く、なだらかな緑の稜線が見える。左下は池塘とドリーネの点在する草原、後ろには伊吹山の特徴的な崩壊した山肌。残念ながら雲が多く、伊吹の頭も琵琶湖も見えない。僅かに湖東平野の一部が見えた。



いったん緩く下り、笹原の中を登って頂上に着く。何人かの人が腰を下ろしていた。経塚山まで帰り、左へゆるい笹原の尾根を下る。



八合日、鳥居のたつ「お虎が池」は雨乞いの為に昔から信仰されていて、琵琶湖の形をしているそうだ。ほぼ平坦な道も、七合目の大きな露岩のあるところから急に厳しい下りになる。やがて静かで涼しい木立の中の「汗拭き峠」に着く。ここから無人の集落と言われた廃村・榑ヶ畑を通り、醒ヶ井養鱒場に下った。頂上での展望は、もう一つで期待はずれだったが、途中の渓谷の美しさ、山村ののどかさを満喫し、充実した楽しい山行だった。

1999年5月にはPATIO「低山徘徊派」オフ会に、若いメンバーに混じって参加した。コースは8年前に来た時と同じである。この日も曇り空ながら、キツネノボタン、ヤマシャクヤク、ナツトウダイ、ボタンネコノメソウ、ホウチャクソウ、キランソウ、イチリンソウ、ニリンソウ、ヤマルリソウと素晴らしい春の花の競演だった。


私の関西百山(14) 養老山

2013-11-03 12:20:41 | 私の関西百山

 養老山(859m) <養老山地>
(ようろうやま)滝の名前は有名だが山の名は「コンサイス日本山名辞典」にも載っていない。ただし養老山地については「三重・岐阜県境。濃尾平野の西端を限る傾動地塊。…最高峰は笙ヶ岳…」の記載がある。日本山岳会編「新日本山岳誌」には山の名が出ていて、「傾動地形」についても「この山は東側が急峻な断層崖であるのに対して、西側は比較的なだらかで…」と説明されている。私は山と渓谷社の「一等三角点の名山100」で興味を持って1993年に登った。

<孝子伝説の滝で有名な一等三角点の山>
秋晴れの休日、養老滝の上にある駐車場に車を置き、すぐ右の谷に下る。堰堤の下で谷を渡り、向かい側の斜面に取りつく。灌木帯の中、かなり勾配のきついジグザグの登りだが、よく整備されていて道幅も広く歩きやすい。グングン高度を稼ぎ、尾根に出る。地図の標高550M地点で、ここからは緩い尾根道の快適な登り。丁字路で突き当たると、左へ1分で三方山(730m)に着く。

 三方山から養老山、小倉山

線刻の仏像と種字の小さい石柱が2本ある狭い山頂で、濃尾平野が眼下に拡がる。南西に小倉山から養老山に続く稜線、北には牧場への稜線とその左に笠ヶ岳も望める。元の丁字路を右へとり、さらに次の丁字路が笹原峠で、右は旧牧場へ60分の道標がある。

 笹原峠

左ヘススキと笹の高原状の道を登り、最後に木の階段を登ると小倉山(841m)。「この眺めが皆さんを待っていました」と書かれた展望図では御岳や恵那山も見える筈だが、残念ながら木曾川も霞んでよく見えない。とりあえず目的の養老山へ急ぐ。緩やかな稜線を下り、登り返すと林道に出て、それに沿うように道は続く。



三角点へは5分ほど歩いた所を右へ、ブッシュの中を漕ぐように登る。一等三角点(859m)と小さな標識があるが、展望はあまりよくない。ただ笙ヶ岳とその向こうの伊吹が望めた。

 小倉山にて

小倉山に帰って木陰で昼食。帰路は旧牧場への道を取る。小さなピークを3つ越えると下り一方。最初は木の階段でやや急だが、牧場跡からは緩やかな広い林道になる。1時間ほどの退屈な林道歩きで目の下に駐車場が見え、元の谷への分岐に帰り着く。天候、展望とも申し分なく快適な山歩きだった。(1993.10.10)
<コースタイム>駐車場9:05…尾根に出る10:00…三方山10:25~45…小倉山11:15…養老山11:37…小倉山12:00-50(昼食)…旧牧場13:40…駐車場14:35



<付記>帰りに「養老の滝」を見に行った。古くから、万葉集に『古ゆ人の 言ひ来(け)る老人の 変若(を)つといふ 水そ名に負う 滝の瀬 (大伴宿禰東人)』と歌われたように「若返りの水」で有名な滝だったが、「酒好きな父を養っていた孝行な樵が山中で酒の流れる滝を見つける(十訓抄)という話が加わり、元正天皇が年号を「養老」に改めた(717年)…という滝。日本の滝百選、名水百選に選ばれているだけに大勢の人が汲んでいた。この時は「これが酒ならなあ」と思ったが、今なら「若返り」の方がありがたい。


私の関西百山(13) 蓬莱山

2013-11-01 08:55:44 | 私の関西百山

蓬 莱 山(1173.9m) <比良山地>
「ほうらいざん」比良山地では武奈ヶ岳につぐ高さの一等三角点を持つ山。「蓬莱」は古代中国の道教思想にもとずく神仙境のことで、修験道などの影響を持つ山名のようだが不詳。

 強風の蓬莱山頂

1959.1.3  元旦、大学の同級生のNが誘いに来て比良へ。山の家で泊り、2日、一番の江若電鉄で北小松へ。ヤマモモの滝、小白ヶ谷、望武小屋。八ツ渕で昼食の雑煮がラジュウスの調子が悪く、なかなか煮えず。吹雪。八雲避難小屋に泊まる。3日、武奈登頂。打見で昼食。蓬莱を経て、17:30蓬莱駅着。(山日記にこれだけ記されただけ)

 設営準備に雪を踏み固める

1960.1.4  S高校山岳部冬山合宿。4日、望武小屋付近で幕営。積雪50cm。5日.朝食後、強風の武奈ヶ岳登頂。午後、ミゾレになり打見小屋泊。6日、蓬莱山。厚く氷結した小女郎池で滑ったりして遊び、小女郎道を下山。

1963.12.15 当時所属していた「大阪山友クラブ」9人。独身時代の♀ペンも一緒だった。比良山の家に泊まった前夜から雨。金糞の登りにかかるころよりミゾレに変わり、猛烈に寒い。南比良を過ぎて林の中で昼食。クロトノハゲからの景色も、ガスがかかりあまり良くない。打見より蓬莱の山頂に立ち、帰りはコンビラ谷の左の尾根にできた新道を下り、蓬莱駅へ。

1983.4.24 千日山歩渉会例会の下見にドライブを兼ねて20年ぶりの蓬莱山へ。駐車料込みで600円也のゴンドラは、あっという間(8分間)に山頂駅に着く。駅前は公園のように整備され、山頂はどこかと捜したら、何と目の前に大きなケルンの標識があつた。早々に小女郎池を目指す。帰りはスキー場の斜面より金毘羅峠へ。さらに左へ打見谷へ下り、蓬莱から1時間20分程で打見谷のダムに出で、ようやく疲れてきた足を励ましながら駐車場に着く。

1983.5.15 千日山歩渉会例会は参加者10人。ゴンドラが山頂駅に着くと、折からミス大津を迎えて撮影会の始まるところ。ヘリが飛来して旋回を繰り返し、花束を投下するなど脹やかだった。小女郎池の畔でミズバショウ、金毘羅谷への降り口でスズランの群落を見た。人工的に植えられたものだったか?

 小女郎谷上部の残雪

1997.04.20 山好きのPC 仲間「低山徘徊派」6人での山行だったが、待ち合わせに遅れ、蓬莱駅から二人で歩いた。モダンな住宅やロッジが建って、すっかり様子の変わった船路の集落から林道を歩き、砂防ダムから山道になる。薬師滝を過ぎると谷の左岸から右岸へと渡り、次第に高度を上げる。次に左岸へ渡り返すと小女郎谷を離れ、ジグザグに登る。振り返るとずっと下に琵琶湖が霞んでいる。勾配が次第に強くなり、溝状に掘れた所にクマザサが被さる歩きにくい道になる。最後は大きな残雪の横、クマサザを漕いで稜線に出ると小女郎峠だった。小女郎池のショウジョウバカマはずっと数が減り、個体も思いなしか小さくなったようで可憐というより哀れだった。池でみんなと落ち合って、食事のあと蓬莱山に向かう。帰りは登ってきた谷の一つとなりの金毘羅谷を下った。

 小女郎池からの蓬莱山