ネットで探すと「鴻溝録」は文政7年(1824)に大溝藩士・
前田梅園によって著された大溝藩の地誌と分かりました(高島
市立図書館HP)
当時、現在の高島、安曇川町、今津町などは大溝藩(2万石)
の領地で、梅園は「郡官」として領内35村を巡検したときの
見聞を「鴻溝録」としてまとめたということです。

風の強いオウム岩の上から振り返ると、先程の岩阿沙利山の真上に
武奈ヶ岳が見えました。私たちが昼食を終える頃、女子高生らしい
数名が登ってきて、お弁当を拡げました。今日、山で出会った最後
の人たちです。(12:30発)

急坂を下り、アカガシ林の中をなだらかに登っていくと岳山です。
(13:00~13:05)

山頂付近は大きな岩が散らばり、右手には石灯籠を前にした岩室
があり、三体を描いた石仏が安置されていました。
ここからはダラダラと単調な下りが続きます。湖南アルプスのよう
な白く風化した花崗岩に散らばる明るい奇岩帯を想像していましたが、
深い林の中に大岩が散在した道を行きます。

僅かにこの辺りだけ周囲が開け、琵琶湖が見下ろせました。
壊れた小屋がある広場(岳観音跡)を過ぎると、苔むした石段、古い
町石などが現れて参道らしくなります。先日の中山寺奥の院の道に
よく似た感じです。やや急な下りになると、マッタケ山が多いのか
ビニールテープが張り巡らされたところや、抉られた溝状の道を下り
ます。左手にかなり大きな白い砂地の斜面があり、子供たちの声が
聞こえます。「白坂」という標識がありました。

それにしても、うんざりする長い下りです。
大きな石灯籠の立つ、琵琶湖の展望が素晴らしい広場でコーヒータイム
にしました。(13:50~14:10)爽やかな風が吹きすぎていきます。
「弁慶の割石」を見ると道はなだらかになり、「賽の河原」や「神楽石」
をすぎると、ごろごろした歩きにくい道が急に林道風に整備された道に
変わりました。小田川の畔に「音羽の里」の標識があり、林道脇は花期
が終わったイワウチワの大群落が続きます。

やがて大炊神社と長谷寺が並んで立つ音羽登山口にでて(14:40)、
朝、バスで通った広い道を近江高島駅に歩きました。(14:15駅着)
お天気も良く、のんびりとハイキング気分で歩けて楽しい一日でした。
前田梅園によって著された大溝藩の地誌と分かりました(高島
市立図書館HP)
当時、現在の高島、安曇川町、今津町などは大溝藩(2万石)
の領地で、梅園は「郡官」として領内35村を巡検したときの
見聞を「鴻溝録」としてまとめたということです。

風の強いオウム岩の上から振り返ると、先程の岩阿沙利山の真上に
武奈ヶ岳が見えました。私たちが昼食を終える頃、女子高生らしい
数名が登ってきて、お弁当を拡げました。今日、山で出会った最後
の人たちです。(12:30発)

急坂を下り、アカガシ林の中をなだらかに登っていくと岳山です。
(13:00~13:05)

山頂付近は大きな岩が散らばり、右手には石灯籠を前にした岩室
があり、三体を描いた石仏が安置されていました。
ここからはダラダラと単調な下りが続きます。湖南アルプスのよう
な白く風化した花崗岩に散らばる明るい奇岩帯を想像していましたが、
深い林の中に大岩が散在した道を行きます。

僅かにこの辺りだけ周囲が開け、琵琶湖が見下ろせました。
壊れた小屋がある広場(岳観音跡)を過ぎると、苔むした石段、古い
町石などが現れて参道らしくなります。先日の中山寺奥の院の道に
よく似た感じです。やや急な下りになると、マッタケ山が多いのか
ビニールテープが張り巡らされたところや、抉られた溝状の道を下り
ます。左手にかなり大きな白い砂地の斜面があり、子供たちの声が
聞こえます。「白坂」という標識がありました。

それにしても、うんざりする長い下りです。
大きな石灯籠の立つ、琵琶湖の展望が素晴らしい広場でコーヒータイム
にしました。(13:50~14:10)爽やかな風が吹きすぎていきます。
「弁慶の割石」を見ると道はなだらかになり、「賽の河原」や「神楽石」
をすぎると、ごろごろした歩きにくい道が急に林道風に整備された道に
変わりました。小田川の畔に「音羽の里」の標識があり、林道脇は花期
が終わったイワウチワの大群落が続きます。

やがて大炊神社と長谷寺が並んで立つ音羽登山口にでて(14:40)、
朝、バスで通った広い道を近江高島駅に歩きました。(14:15駅着)
お天気も良く、のんびりとハイキング気分で歩けて楽しい一日でした。