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ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

奈良の山あれこれ(11)~(14)

2015-02-24 21:30:48 | 四方山話

大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。

(11)高峰山   「天理市の最高峰」



同じ名前の山は桜井市にもありますが、ここでご紹介するのは大和高原にある一峰で、国道25号(名阪国道)の天理東インターチェンジ付近から正面に見える天理市で一番高い山です。この辺り、西側は春日山断層崖と呼ばれて急激に奈良盆地に落ち込んでいますが、東側は割合になだらかな地形になっています。



322.2mの頂上には2基の電波塔と三角点がありますが、 ヒノキ林の中で展望は得られません。奈良盆地からよく見える赤白まだらの鉄塔(高峰中継所)が建つ別のピークは、小さい谷を隔てて三角点ピークの北側にあり、別の林道が頂上まで通じています。中継所横からは城山や春日の芳山が望めました。

(12)国見山(国見岳)「地図に載らない<元>奈良市のエベレスト」
国見の名を持つ山は全国に数知れず、奈良だけでも何山かあります。ところが奈良市矢田原町と天理市福住町の境にあるこの山は、私の知る限り、どんな地図にも載っていないのです。標高は680mですが生駒山よりも40m高く、近年までは奈良市の最高峰だったので「奈良市のエベレスト」と呼ぶ人もいました。しかし2005年、都祁村が奈良市に併合されたため最高峰の座を貝ヶ平山(都祁村と宇陀市の境にある)に譲りました。



天理市別所から登ると塔ノ森の十三重塔(奈良時代のもの)を見て、666mの三等三角点(点名・長谷)を過ぎて1時間ほどで登れます。

山頂は広場でベンチやテーブルもあり、展望も良いところです。北側の登山口・矢田原の近くには古事記の編纂者・太安万侶の墓があります。

(13)大国見「平城京のあった大和国原を望む山」という意味の山名ですが標高は498m。





山頂に神名を刻んだ石と小さな祠があり、山腹にも大きな石が点在しています。山頂付近のものは古代信仰の磐座跡と考えられます。

山麓の桃尾滝(ももおのたき)は落差23m。大和名所図会では「滝」と記され「桃尾滝ともいふ」と書き添えられています。この辺りは古来「石上(いそのかみ)」と呼ばれ、布留川の上流に架かるので新古今集では「布留の滝」の名で、「今はまだ 行きても見ばや 石の上 ふるの滝津瀬跡をたづねて 後嵯峨天皇」と歌われています。現在も行場として打たれる人が多く、毎年「滝開き」の行事が行われています。

(14)竜王山「恨みのじゃんじゃん火」

竜王(竜神)は水の神様で、天理市と櫻井市の境にあるこの山も、国内に数多い同名の山と同じように、昔から雨乞いのために登られてきました。

頂上近くには、それぞれの登り口の地名を冠した「藤井竜王社」と「柳本竜王社」があります。この山は奈良盆地と大和高原を扼する要衝にあり、戦国末期の天文年間に土地の豪族・十市遠忠が山城を築きましたが、遠忠の子・遠勝のとき(永禄十一・1568年)、松永久秀に攻められ落城しました。「それから、今にも雨の降りそうな夏の晩に、城址に向かってホイホイと叫ぶと、城址の方から火の玉がジャンジャンと音を立てて飛んでくるという。」(天理市の説明板より)これは戦死した十市方の武士の人魂と恐れられました。

三角点(586m)のある山頂はその南城跡で、今は公園風に整備されています。大和平野を見下ろし、竜門山系や金剛、葛城、生駒の山並み、遠くは明石大橋まで望むことができます。

やや離れた標高521mピークにある北城跡には、土塁や石垣、竪堀などが残っています。

また、この辺りは古墳の多いところで、竜王山の登山道の途中にも「柳本古墳群」があり、円墳・方墳300基が残されています。

西山麓には我が国最古とされる「山辺(やまのべ)の道」が通り、道沿いの古刹・長岳寺は「釜口(かまのくち)の御大師さん」と呼ばれ、弘法大師の霊地として親しまれています。


奈良の山あれこれ(7・続き)~(10)

2015-02-17 20:58:48 | 四方山話

大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。

(07)矢田山-2

 

「矢田の大石」 アジサイで有名な矢田寺の北西、境内から矢田山へ向かって町石道を登っていくと高さ約8mほどの花崗岩の丸い石が、今にも転げ落ちそうに斜面から突き出しています。王石とも足形石ともいいます。壬申の乱(672年)の時、大海人皇子(のちの天武天皇)が戦勝を祈願して矢田山の上から馬にまたがったまま飛び降りたとき、馬の足形がついたためと伝えられています。またこの石を割ろうとすると血が流れ、その跡が根元に見られるとも言われています。駒井保夫「郷土の伝説」(昭和55年)によると、負け戦で矢田の地に逃れた皇子が矢田山の頂上に瑞光を見て登ると、一つの石が光を発していた。『現在もこの石は御祈念石とか、きつね石とか呼ばれ残っています。』皇子はこの石の前で戦勝を祈って白馬に乗って飛び降りたと書かれています。私は御祈念石を探してみましたが、それらしい岩はまだ見つけられません。また肝心の馬の足跡も、血の筋も見ることは出来ませんでした。

(07) 矢田山-3

「地獄を見てきた上人」矢田山中腹にはアジサイの寺で知られる矢田寺が建っています。このお寺は「矢田の地蔵さん」として知られ、味噌舐め地蔵はじめ様々な伝説を持つ地蔵さんが安置されています。建立当時の本尊は十一面観音でしたが、平安時代に矢田寺に入った小野篁(おののたかむら)の師匠・満慶上人が、身体は朝廷に仕えながら魂は閻魔王宮にあったという篁に乞われて、地獄に行って閻魔王に菩薩戒を授けます。このとき人々に代わって数々の地獄の責め苦にあう地蔵菩薩に、娑婆に帰って人々に仏縁を結ばせることを誓い、仏師に地蔵さんを作らせて安置したのが「矢田の地蔵」の始まりとされています。

また閻魔王から、うるし塗りの箱を一つ受けとりました。帰って開けてみると箱には白米が入っていて、いくら使っても、すぐまた一杯になります。それ以後、満米上人と呼ばれるようになりました。今は「矢田へんろ道」の最高所で私たちを見守っておられます。

(08)松尾山

「中腹に日本最古の厄除け寺、山頂にはTV中継所」山名は尾根に松の木が多いことに由来したという説がありますが、確かにアカマツ林が目立ちます。30数年前まではマツタケも採れました。東山腹に建つ松尾寺は718年、日本書紀編纂者の一人・舎人親王(天武天皇皇子)の発願。書記の編纂が始まった時の年齢が42の厄歳だったため、日本書記の完成と厄除けを祈願して建立されました。「日本最古の厄除け観音」として特に二月の初午の日には多くの参詣者で賑わいます。

また春のバラ、初夏のユリなどの花園も解放され、夏には小学生の「一休さん」修行体験も行われます。山頂(315m)は寺の10分ほど上で、NHKと民放TVの無人放送局と電波塔が立っています。

山頂北側の松尾湿原は、ハッチョウトンボやモウセンゴケなど貴重な動植物の生育地でしたが、今は絶滅の危機に瀕しています。ここだけでなく矢田丘陵の動植物は、近年になって急激に種類も数も減少しています。普通に目にしたキジやウサギも滅多に見かけなくなり、代わりにイノシシやアライグマが出没しています。豊かな里山の自然が消えて行くのは本当に淋しく思います。

(09)神野山(こうのさん)

「天狗の喧嘩でできた奇景」 昔から「神の山」として崇められた大和高原の奥にあるなだらかな山容の山、619m。一等三角点の山頂(展望台があります)からの展望は素晴らしく、5月に山頂付近を彩るツツジの群生も見事です。この山の中腹にある鍋倉渓は大小の真っ黒な石(角閃斑れい岩)が 600 mにわたって谷を埋め、その下を伏流水が流れている奇観で、天然記念物になっています。

昔、神野山の天狗と伊賀・青葉山の天狗が喧嘩をして、伊賀の天狗が投げた石が鍋倉渓になったという伝説があります。神野山の天狗はわざと負けたので、伊賀の山は石がなくなったとか。また「ナベクラの水を見た者は百万長者になれる」「正直ものが岩の間を覗くと死んだ親の顔が見られる」と言われたそうです。

(10)城 山

「山頂を削って城に?」 名古屋に向かう名阪国道(25号線)は天理から東へ五ヶ谷インターを過ぎたところで鋭くカーブします。その頂点の北側にあるのが城山で、頂上部分は小さな台形をしています。これは元の山頂を削り取って城塞にしたものと考えられています。戦国時代には筒井順慶の一族であった椿尾氏の山城があったところで、別名「椿尾塁(つばおるい)」と呼ばれています。南椿尾の集落から荒れた林道、さらに草深い道を探り行くと、赤い鳥居が並ぶ奥に神号を彫った石碑が五つ。真ん中に大宮姫大神、横に光吉、光姫、高城、高宮の名が見えました。

529mの三角点はすぐ左上、数mのところにありました。現在、山頂付近はかなり荒れている様子です。 


奈良の山あれこれ(05)~(07)

2015-02-06 20:44:31 | 四方山話

大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。

(05)高円山(たかまどやま)「奈良の大文字焼き」

近年まで山頂(460m)には高円山ホテルがあり、夜景を眺めながら飛鳥鍋(牛乳をベースにした鳥鍋)で一杯やるのは最高でした。

前に展望台があり大伴家持の「たかまどの 秋野の上の朝霧に 妻呼ぶ牡鹿いで立つらむか」の歌が、犬飼孝書の万葉仮名で刻まれた万葉碑が立っています。

旧ホテル裏側の山頂へは、ドライブウェイから簡単に行けますが、三角点は道路の反対側を下った雑木林の中の高みにあります。登山の対象としては、ツバキやハギで有名な白毫寺から(または滝坂道の途中から)中腹にある奈良大文字焼きの火床に登ります。

大文字焼きの歴史はまだ浅く、戦没者慰霊と世界平和を祈願して昭和35年から始まったものですが、「大」の大きさは一画目が109m、二画目が164m、第三画目が128mで日本最大級です。ここから古都奈良の展望を楽しんだ後、急坂を登って林に囲まれた点名・白豪寺432mの二等三角三角点に登るのがお勧めです。

(06)一体山(いつたいざん)「天狗の足跡」
一台山とも書きます。笠置山地(大和高原北部)にありますが、行政区分上は奈良市に属します。北には柳生の里があり、南麓を東に行くと御影(ごえい)を経て観梅で名高い月ヶ瀬に至ります。

西へ行けば柳生から忍辱山(にんにくせん)を経てくる道と合流して、誓多林から石畳の滝坂道が奈良に通じています。この付近は何故か仏教的な地名の多いところです。(写真は柳生街道石切峠の峠茶屋)

下誓多林の中ほどに、岸壁に大きな二つの足跡があります。昔、天狗が誓多林堂の太鼓を盗み出し、一台山の松の木にかけて鳴らした時の足跡だそうです。



595mの山頂には関西電力無線中継所と塔が立ち、二等三角点標横には役行者像がありました

(07)矢田山 「飛行機の神さんと邪馬台国」

信貴・生駒山地と奈良盆地の間に並行して連なる矢田丘陵で一番高い山(といっても)340m。饒速日命が天から降臨して住まいを定めるに先立って、天神から三本の天羽々矢を授かり天磐船(あまのいわふね)から射た矢が落ちた所がこの山麓です。

最初の矢は一の矢(矢田町の小字)に、

二の矢は北北東の矢田座久志玉比古神社に…(ヤタニイマスクシタマヒコ神社は別名・矢落明神と呼ばれ、楼門に木製プロペラが付けられ「航空祖伸」の文字が記されています

三の矢はさらに北北東の字飛具谷字宮所に落ちました。それぞれの場所に小さな塚があります。ニギハヤヒノミコトを物部氏の始祖と考え、三の矢の場所を邪馬台国伝承地と想定する説も生まれました。


52年前の今日

2015-02-04 09:58:42 | 四方山話

1962年2月4日、S高校山岳部のOBたちと御在所岳藤内沢の氷瀑を登っていました。

当時の山日記に記した文章です。

藤内沢出合

第一ルンゼ

『3 日。藤内小屋泊まり。快晴の 4 日、1 ルンゼ、中俣、 3 ルンゼなどで氷瀑の感触を楽しみながら、ザイルワーク、アイゼンワークを練習。初めてナイロンザイルを使ったが、雪も付かず、しなやかで快適だった。最後の稜線に出るところがシブく、腕力を頼りに挙じ登る。上からスキーヤーが驚いた顔で見物していた。』

第3ルンゼから稜線に出たところ

それまでのザイルは麻製でしたが、雪が付いて凍るとワイヤロープのようにコチンコチンになり、扱いに困ったものでした。

 

当時のメモ

右から二人目が私(28歳)

 


奈良の山あれこれ(01)~ (04)

2015-01-29 09:43:22 | 四方山話

「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。

<大和平野エリア>

(01)春日山、御蓋(みかさ)山、若草山

「みかさ山と若草山は別の山」

御蓋(みかさ)山、若草山、それに春日山はよく混同されます。特に「みかさ山」と若草山は旧陸測地図や国土地理院地図にも誤ったり、並記されたりしています。私も三層になった若草山を三笠山と呼んでいました。しかし、大和名所図会や大和資料などの古書には、三つの山がそれぞれ別の山であることが示されています。また1935年に三笠宮宮号宣賜の時の宮内大臣の謹話に「古くより三を音に通じて用ひ、山の名があたかも笠を伏せたように見える所より起こった名称である…」と区別がはっきりしました。

写真手前の山が御蓋山(293m)、後ろが若草山(342m)。なお春日山は、御蓋山を含めた東側の大きな山の総称です。

古都奈良の冬の風物詩・鹿寄せが行われる飛火野から見た御蓋山(正面)と背後の春日山。

 

(02)若草山

「山焼きはなぜ1月第4土曜日に?」

東大寺の背後にある芝生に包まれたなだらかな山は、大仏さんや春日の神鹿とともに奈良を代表する光景といえるでしょう。最近ではモノレール計画が話題になりました。

中でも古都に春を呼ぶ山焼きは全国的に有名ですが、永らく成人の日に行われていた行事が、なぜ1月第4土曜日に変わったのでしょうか?

これは2000年施行のハッピーマンデー制度で成人の日が月曜日になったので、その前日にしたためです。ところが消防出初式と重なったり、ススキや芝がまだ枯れていなかったりで、第3土曜日への変更が計画されました。

しかし、今度は花火の打ち上げ時間が大学センター入試の英語ヒヤリングと重なることでクレームがつき、2009年から現在の1月第4土曜になったということです。

写真では順序が逆になりましたが、今年は1月24日午後6時15分から約600発の花火が打ち上げられ、山焼きの点火は6時半でした。花火の中にはこんな可愛い鹿さんも…。

 

(03)春日山 

「原生林は昔のまま?」

春日山は春日大社の背後にある山の総称で、最高峰は花山(498m)。山全体が神域であるため、古来、狩猟や伐採が禁じられて、春日原生林は手厚く保全されてきました。

現在は国の天然記念物に指定され、また奈良の世界遺産として登録されています。ただ、古くは秀吉が1万本のスギの苗木を寄進した他、何度かの台風のあとでは整備されてきたので、厳密な意味では「原生林」とは言えないかも知れません。

高円山との間の谷沿いに石畳の滝坂道(柳生街道、柳生からは奈良街道)が東に延びて、稜線に出たところの三叉路に荒木又右エ門が試し切りをしたという首切地蔵が立っています。

昔は格好の目印だったところですが、今はすぐ近くにドライブウェイが通っています。

 

(04)芳山(ほやま)

「二体?三体?謎の石仏」

石畳の滝坂道を登り、首切地蔵を左に行くと石切峠に出ます。ここには古い峠の茶屋があり、古い槍などの武具や武芸帳も残されています。

上誓多林の八王子(八柱)神社(社殿にシカの絵が描かれています)から竹藪を抜けて山間の野菜畑の横を行きます。小さい茶畑が終わる所にシシ除けの金網があり、「芳山」と小さな標識のついた重い扉を開けて入ります。

美しい杉植林から細い急坂の山道を行くと、静かな林の中に四等三角点518mが埋まっていました。少し手前の分岐を入った広場に、正面と左側面にお互いの背中を合わせた二尊石仏が立っています。

三体仏とも言われているので、一面は雨風にさらされて磨滅したのかも知れません。


2014年の想い出(7)大和の祭事と催し

2014-12-28 18:26:57 | 四方山話

  

奈良の祭事や催し物のうち、「夜遊び」は前に投稿しましたので「昼の部」をレポートします。


「橿原考古学研究所付属博物館(1月12日)別展示・十二支の考古学・午」を見学後、女性の学芸員さんのやさしい解説で、ゆっくり常設展示も見学しました。右上・馬の埴輪  左下・銅鐸(別においてあるレプリカを鳴らして音色を聞かせて頂きました) 右下・藤ノ木古墳出土の馬具
 
 
大和郡山盆梅展(3月4日)毎年開かれる大和郡山城の盆梅展も今年で11回目。120鉢の盆梅が飾られた会場は梅の香りで一杯でした。庭園のウメも見頃になっていました。

 
凛とした気品のある女性のイメージで今や盆梅展の顔となった「悠妃」
 
 
「高取町・町屋の雛巡り」 今年で8回目の開催(私たちは3度目の訪問です)。ご自慢のお雛様を見せて下さるお店や民家のお雛様イン会場三つの地区にあるジャンボ雛などゆっくりと見て歩きました。
左上・清水谷絆広場の「貝合わせジャンボ雛」高さ5m  右上・メイン会場「雛の里親館」の天に届けと段上に飾られた数百体の「天段のお雛様」  左下・いつも見せて頂く増本家のお雛様  右下・カグヤ姫みたいな竹のお雛様
 
 
率川(いさかわ)神社ゆり祭り(6月17日) 大神神社(三輪明神)の摂社であるこの神社で、毎年この日に行われる三枝祭(さいぐさまつり)。1000年以上も続いている由緒ある神事です。
 
 
祭神ヒメタタライスズヒメノミコトが三輪山麓の狭井で育ったことから、当時そこに咲いていたササユリの花でお供えの酒樽を飾ります。

 
奈良県立博物館「大古事記展」(11月12日) 石上神宮の国宝国宝「七支刀(しちしとう)」をはじめとする秘宝、考古資料、美術品などあらゆる角度から味わうことができました。少々専門的で肩がこりましたが、勉強になりました。

 
大和民俗公園「なら民博ふるさとフェスタ」 11月15日、16日)「関西文化の日」の一貫としての行事。15日は西中ブラスバンド部の演奏で始まり、民俗芸能「室生の獅子神楽」(右上)、「奈良西九条町の千本餅搗き」(左下)「御杖村桃俣の獅子神楽」(右下)。
 

16日は三つのチームによる迫力のある太鼓の競演、獅子やひょっとこも浮かれ出ました。

大和民俗博物館(年間の展示見学をまとめました)
 
 
コーナー展「絵馬と縁起物」(1月5日)…干支に因んだ絵馬など。どの絵馬にも人々の様々な願いや、その願いが叶ったお礼の喜びが表されていてとても興味深く観覧しました
 
 
春季企画展「なに?なぜ 昔の道具を知ろう」(6月12日) 左上・唐箕、右上・江戸時代の和時計など、左下・色んな時代の照明器具、右下・ハイトリック(明治時代のハエ取り器)など先人の知恵に驚くとともに、昭和初期に使っていたものもあり懐かしかったです。
 
 
夏季企画展「金魚と暮らす」(7月16日) 金魚養殖の様子や道具の紹介に始まり、陶磁器や玩具など身近なところの金魚、さらに今年20回目となる金魚すくい選手権大会の紹介まで、金魚の町・大和郡山にふさわしい内容でした。
 
 
秋季企画展「やまと伝統のものつくりとわざ」(11月15日)機織り体験もさせて頂きました。

大和郡山の史跡と伝説(10)東明寺

2014-12-19 10:32:43 | 四方山話

 

 
10.東明寺(大和郡山市矢田町)
「ヘソを取られたカミナリ」東明寺は矢田寺の北、矢田丘陵の中腹にある高野山真言宗の寺院です。
 
 
673年、舎人親王が母・持統天皇の眼病治癒を祈願して建立した伝えられています。親王の枕元に現れた金の鍋にこの地の井戸から湧く霊水を汲み天皇が目を洗うと、東の空が明るく見えて、やがて快癒しました。金の鍋は寺の下に埋まっているそうで、これが鍋蔵山(かぞうさん)東明寺の名の由来です。
 
 
また、私たちが子供の頃「裸で昼寝すると雷にヘソを取られる」と言われたものですが、この寺には境内にあった松の木の根元に雷が昼寝に降りて、ぐっすり眠り込んだ挙句に寺の僧にヘソを取られたという伝説もあります。今でも寺宝として保存されていますが…ひょっとすると隕石ではないかと想像しています。
 

大和郡山の史跡と伝説(9)柳里恭

2014-12-14 09:42:00 | 四方山話

 

9.柳里恭の墓(大和郡山市外川町)
柳澤里恭は江戸中期に柳澤家に仕え、二千五百石の大寄合の重職にあった武士です。父・保格は柳澤姓を名乗ることを許された重臣で、里恭(さととも)はその次男。後に中国風に「りゅうりきょう」を名乗りました。いくつかの号のうち「淇園」がよく知られています。武芸百般に通じ、人の師となることが出来た項目は16あったといいます。
 
 
国学では本居宣長、上田秋成と並び、絵画では池大雅の師匠でした。図は東京国立博物館蔵の淇園筆・関羽像(Wikipedia・public domain)
 
 
まさに文武両道の天才ですが、武者修行の途中、郡山に立ち寄った宮本武蔵と郡山城で会見したという伝説があります。武蔵は「貴殿がこのように剣の達人とは」と感嘆すると、淇園は「貴殿の絵のお腕前こそ」とお互いに褒めあったといいますが…武蔵は正保2年(1645)に没し、淇園は元禄16年(1703)生まれですから有り得ない話です。里恭の墓はわが家のすぐ近く、発志禅院にあります。
 
 

大和郡山の史跡と伝説(8)大納言塚

2014-11-30 15:58:34 | 四方山話

 

7.大納言塚(大和郡山市箕山町)
豊臣秀吉の異父弟・秀長の墓所。秀長は天正13年、紀伊・和泉・大和に及ぶ百万石の所領を得て、天正13年(1985)、郡山に城を築き秀吉の良き補佐役として活躍しました。現在の大和郡山の基礎となる商工業の発展や赤膚焼の開窯など、文化的な面でも力を尽くしました。幼名は小竹だったといわれますが、天正15年に従二位大納言の官位を得たので大和大納言と呼ばれるようになりました。暴走気味の秀吉のブレーキ役でもあり、彼が長命であったら豊臣家が家康に滅ぼされることはなかったと言われています。ここは天正19年に郡山城内で亡くなった秀長を葬ったところで市指定史跡になっています。
 
 
最初の写真に見えるお地蔵様(高見地蔵尊)
 
 
お地蔵さんの左が正面です。
 
 
門前にあるのは賽銭箱でなく「お願いの砂箱」
 
 
このように白砂を中の穴に三度通して願い事をすると「智将・大納言」が願いを叶えて下さいます。
 
 
合掌。

大和郡山の史跡と伝説(6)飛龍権現

2014-10-14 08:12:16 | 四方山話

 

6.飛龍権現(大和郡山市矢田町)
矢田寺南の交差点、横山口から西へ進む道の左には毎年「全国金魚すくい大会」の会場にもなる市営総合公園施設、右は市役所矢田支所があります。
 
 
支所を過ぎると右手の田圃の中、小高い丘の上に赤い鳥居のお社が見えます。
 
 
郷土史家・駒井保夫さんの「郷土の伝説」(昭和55年刊)によると、昔この地から竜が昇天して、その時の稲妻で周囲の木は全て焼けてしまったという伝説があります。
 
 
また同書によると、いつからか「登竜門」と結びつけたのか選挙や入試にご利益があるとされるようになりました。当選者からお礼の寄進が絶えないので、社も鳥居もいつも真新しいのだそうです。