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ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

矢田山・遍路道

2011-11-10 07:00:00 | 矢田だより

曇り空の矢田山へ。今日は紅葉の様子を見がてら「へんろ道」から登りました。

この辺りから、数年前に「へんろみち保存会」の方が植えられたカエデの並木道が始まります。
今年はまだ紅葉には早いようです。

急坂を上って「十徳小屋」へ。右は薬師如来です。

 近くに咲いていたヤクシソウ。この花の名前は葉が薬師如来の光背に似ていることから付いたそうです。

この時期に珍しいスミレが咲いていました。

満米上人の石像がある遍路道の最高所が近くなりました。この辺りの紅葉が一番進んでいます。

クサギの花が咲いていました。大和盆地の向こうに若草山から三輪山に続く東の山々が見えます。

少し先で遍路道を離れ、縦走路にでて矢田山最高所に登ってきました。

最高所近くにツツジが咲いていました。この花も季節を間違えたようです。

元の分岐に帰って残りの遍路道を下り矢田寺に帰りました。ここも知る人ぞ知る紅葉の美しいところです。
スタートから1時間40分、適度なアップダウンで、いいトレーニングになりました。


変愚院の山日記 (4.初めて家族でハイキング)

2011-11-06 09:44:41 | 矢田だより

東京オリンピックのあった1964年、12月に結婚して変愚院夫婦が誕生しました。 66年2月、長女誕生。美しい穂高に因んだ名前を付けました。68年8月、長男誕生。「山のように大きな志を持つように」との願いを込めた名を付けました。結婚したときから、男子ならこう、女子ならこうと二人で決めていたので、後に子供たちからは「親の趣味で名前を付けて…」と言われたこともありました。これは初めて家族3人でハイキングした時の日記です。

1970.11.3   山辺の道ノヽイキング   

一家揃って初めてのハイキング。岳志は2才6ヶ月だが、なかなか足がしっかりしていて、途中一寸眠そうだったが、2~300M肩車をしてやっただけで結局は歩き通した。将来有望である。

国鉄郡山駅で慌てて天王寺行きに乗車、小泉で降りて奈良行きに乗り換える。桜井線の三輪で降りる。快晴続きだったが、今日は少し薄曇りの空模様。金屋の石仏は囲いがしてあって、格子の間からかろうじて顔が見える程度で失望する。

大神神社で美穂が交通安全の御守りを受ける。

ここから少しの間、道が細く、田の中を通って玄賓庵へ。ここで昼食。

ここから景行天皇稜迄が長く(2.6K)、岳志は昼寝の時間になって歩きながらウトウトする。肩車をする。

柿やミカン畑の中を通って三輪山の裾を回り、集落へ入る。菊の花が美しい。御陵の前で休憩したら岳志は元気になり、「早く歩こう」と急かす始末。

長岳寺へ参り、名物のソウメンを喰って、柳本駅へ出る。帰りは40分程で家に帰る。「山辺の道」16Kの約半分、南側の部分を歩いたことになる。楽しい一日だった。


遅咲きの月下美人(2011.10.21)

2011-10-21 21:46:21 | 矢田だより

秋も深まった今頃になって、また月下美人が咲きだしました。
一昨夜に一輪咲いたのは見逃しましたが、昨20日夜、♀ペンが寝る前に香りに気付いて撮ったのがこの写真です。

今夜は二輪揃って開きました。いつもより少し小ぶりで香りもやや薄いようですが、この時期に咲くのは珍しいと思います。

 


斑鳩の里から松尾山へ(2011.10.10)

2011-10-10 14:48:40 | 矢田だより

斑鳩町岡本の法起寺は、聖徳太子が法華経を講じた「岡本宮」の跡地で、太子の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)が寺に改めたのが始まりと伝えられています。
体育の日の朝、山に登る前にお寺の駐車場に車を置いて近くを散歩しました。

まだ8時前なのに何人ものカメラマンがカメラを構えています。
写材は日本最古の三重塔を背にしたコスモス畑と黄金の稲穂。

美しい日本の秋の風景です。

ちょっと先の法輪寺横にある斑鳩町営駐車場に車を置いて、8時10分スタート。
ここから見える法輪寺三重塔は1975年の再建になる新しいものです。

ユーモラスなお爺さんとお婆さんの案山子。新しくなっていました。
その前を通り、斑鳩神社の横から東に折れて松尾寺に向かいます。

12丁の参道を登って松尾寺に着きました。南総門をくぐります。(8時50分)
北の総門から入り直し閼伽井で手水を使い、108段の石段を登って本堂で般若心経を唱えました。

本堂横床几で少し休憩。正面に三重塔。右に見える大岩は神霊岩と呼ばれ、注連縄の張られたところには窟があり、修験の山だったことを偲ばせます。
塔の前から左の山道(元修験道)に入って松尾山へ(9時5分)。

全く無展望の三角点(9時20分)。

帰りは北総門前から小泉方面への車道を下りました。山田(地名)で右へ折れて、休日で大賑わいのゴルフ場を抜けて行きます。
ゴルフ場を出たところにクサギの実がありました。

その先で法輪寺の塔が近くに見えるところにオオシマザクラが咲いていました。
10時10分、駐車場帰着。他府県ナンバーの駐車が増え、法輪寺と法起寺を結ぶ斑鳩の道は、観光客やハイカーで賑わっていました。


今日の矢田歩き(2011.10.02)

2011-10-02 15:45:27 | 矢田だより

どんよりした曇り空。6時40分、横山北のお地蔵さんの前に車を置いて矢田丘陵へ。
青空なら柿の実が美しいのですが…。

10分で矢田寺です。お詣りを済ませて、近畿自然歩道を南へ、国見台へ向かいます。

国見台から南東の眺め。左端遠くに高見山、その左手前が竜王山、正面に竜門山群、右端に薊岳から始まる台高の山々…。曇り空ながら、遠目が効きます。
法隆寺から松尾山経由で登ってきたご夫婦としばらくお話しました(7時15分~7時20分)。
矢田山への尾根筋では、ときどき出会う登山姿の男性に出会いました。

矢田山最高所「まほろば展望所」。気温13℃でした。左の薄緑色のところが若草山、その右の高まりが先週登った高円山です。
前にもお会いしたマラソンの練習をされている男性と、いろいろお話しできました(8時~8時10分)。
8時50分、東明寺にお参り。薄暗い竹藪を抜けて…

9時10分、北横山の駐車場所に帰りました。ヒガンバナをお供えして、今日も楽しく山歩きができたことをお地蔵さんに感謝しました。


今日の大和民俗公園(2011.10.01)

2011-10-01 17:49:30 | 矢田だより

10月になりました。今日は陽が西に傾く頃から公園へ行きました。

外周を歩くと、黄金の稲穂を見守る案山子たちに出会いました。
隣りの田圃では稲刈りが始まっています。

いつもの南門の反対側にある北門から公園に入りました。
ヒョウタン池手前のヒガンバナとコスモス。

斑入りのススキが風に揺れています。

黄色いケイトウ

真っ赤なウメモドキの実

家に帰って庭の水遣りをしていると、白いホトトギスが一輪、咲いているのを見つけました。
秋が深まっていきます。


今日の大和民俗公園(2011.09.29)

2011-09-29 11:43:23 | 矢田だより

今日は9時を過ぎて公園に入ったので、2周目にいつもは閉まっている民家群の中を歩きました。
旧松井家裏のヒガンバナはまだ瑞々しく朝の陽を浴びて輝いています。

こちらは旧木村家前のヒガンバナ。
こちらも、あまり日当たりがよくないので咲きだしたのが遅かったようです。

白いリンドウの花。

美しく開き始めました。(4枚ともケイタイで撮影)


山岳霊場巡礼(3) 金峯山

2011-09-22 11:07:58 | 矢田だより

*しばらくお休みしていた久保田展弘著「山岳霊場巡礼」の読書感想文?「大峰山と熊野三山━山と海の他界信仰」の章を3回に分けて見て頂きます。『』の部分は同書よりの引用です**

金峯山は役行者による開山とされている。
「日本霊異記」には40余歳まで山中で修行を積み、不思議な験術を身に付けた「役の優婆塞(えんのうばそく)」として登場する。神々を使役して金峯山と葛城の峰の間に橋を渡そうとしたところ、土地の神・一言主は己の姿が醜悪なために昼は姿を見せず、夜だけしか働かなかった。

 
<これがその岩橋の橋台(橋桁を支える部分)だ!?>

そのため役行者に折檻される(!神様なのに…!)。恨んだ一言主が役行者が謀叛を企んでいると讒訴したために、母親を人質にされて捕縛され、伊豆大島へと流された。しかし、流刑中も夜になると富士山へ飛行して遊んだという。この流罪は「続日本記」(正史)に文武3年(699)5月24日のことと明記されている。韓国連広足に「呪術で人を惑わしている」と讒言されたとされる。



<伊豆・浄蓮の滝近くで見た役行者石像。「大瀬海岸には飛行の蓑を懸けた蓑掛岩がある」など、伊豆に残した足跡が説明板に記されていた。>



<吉野桜本坊所蔵の役行者像>
役小角(行者)が元興寺で孔雀明王呪法を学んだのは17歳と言われるが、その後、葛城山中で修行、さらに大峰山系で修行を重ねた。

金峯『山上で一千日の苦行をし、祈りを込めた満行の日に「金剛蔵王権現」を感得したと伝えている』。『役の行者は、みずから修錬のすえに感得した蔵王権現の姿を、桜の本で刻み、蔵王堂に祀ったというのが伝承である。以来、吉野では、桜は権現の神木として、たとえそれが枯木であっても、 薪などにはしなかった。』

吉野山のサクラはその後の寄進などにより、現在の上千本、奥千本で知られるように日本を代表する名所になった。

金峯山という名前は青根ヶ峰の金峯神社祭神が金山彦(金属精錬の神)であるように、もともと金属との関連を匂わせている。それが仏教と習合した後は黄金浄土の信仰となって「かねのみたけ」と呼ばれ、『現世の富貴と長生を願う庶民信仰として』広まっていく。
 こうして吉野山の最隆盛期には山下百数十坊、山上にも三六坊があったという。これらの坊にいた山伏の集団が巨大な兵力集団として勢力を持つ。古くは壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)が隠棲し、兄・頼朝に追われた義経はここに隠れ、足利尊氏に幽閉されていた花山院を脱出した御醍醐天皇は、一山の大衆を頼って南朝(吉野朝)を置いた。吉野山は「軍書に悲し…」と言われるようにさまざまな歴史の舞台となった山でもある

<勝手神社:文治元年(1185)、雪の吉野山で義経と別れた後、追手に捕らわれた静御前は、この社殿の前で舞をまった。居並ぶ荒法師たちも涙したという>

<吉野朝宮跡:蔵王堂の裏手にある南朝の皇居跡。この付近の大小20に及ぶ寺院のうち、最大の実城寺が行宮(後醍醐天皇の御座所)となった>

ところで地図上に名前のない金峯山、また大峰山は、どの山を指すのだろう。本書によると『吉野山の、山下蔵王堂あたりから、山上の蔵王堂あたりまでをふくむ一帯が、金峯山 ということになる。』
 ここでいう「山上の蔵王堂」とは、山上ヶ岳(1719m)の蔵王堂のことである。そして大普賢岳、弥山、さらに八
経ヶ岳(1915m)を経て、『釈迦ヶ岳、大日岳、地蔵岳、さらに玉置山から熊野川にいたる一大山脈を大峯山と呼んでいいのだろうと思う』と記されている。