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ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

スペイン8日間の旅(9)

2014-02-15 09:04:55 | 旅日記

5日目(1月28日・火)グラナダ~コルドバ~ラ・マンチャ地方~マドリッド

8時、グラナダを出てコルドバへ向かいます。30分ほどで郊外に出ました。8時45分、朝焼けの空の下にオリーブ畑が続いています。

途中、古い貨物駅の跡にある道の駅?でトイレ休憩。その後、今度は見渡す限りのヒマワリ畑。今は発芽したばかりですが、花が咲くと素晴らしい光景でしょう。もっともスペインでは陽光がきつすぎてヒマワリはお日様から顔を背けて咲くとか。そんな話を聞きながら、10時45分、167km離れたコルドバに着きました。

コルドバは紀元前2世紀頃からローマの植民地となり、8世紀半ばから11世紀にかけてイスラムの後ウマイヤ王朝の都として栄えました。その歴史地区は世界遺産に登録されています。グアダルキビール(ビア樽生ビールと覚えました)川にかかるローマ橋のたもとに停まったバスを降りて、メスキータへ向かいます。

メスキータの塔と外壁が見えてきました。街路樹はたわわに実をつけたオレンジ…誰も採らないのかなあ?

メスキータ スペイン語でモスクの意味です。もともと西ゴート王国のカトリック教会があった処ですが、イスラム後ウマイヤ朝時代にモスクとなり、さらにレコンキスタによってキリスト教会に改築されました。そのためイスラム教とキリスト教両者の様式が見られる独特の建築物となっています。イスラムの面影の濃い門を潜って内部に入ります。

円柱の森。数万人を収容できる(甲子園か!)という森を表す祈りの大空間に、868本(王のHRと同数や!)の柱が立ち並んでいます。

785年のモスク完成後、200年にわたって拡張が繰り返されたので、柱には世界各地から大理石や硬質の木材など色々なものが転用して使われています。その高さの不揃いを調整するための工夫が上部の二重アーチで、赤の煉瓦と白の石灰岩が交互に組み合わされています。

キブリ壁。モスク中央にある最も重要な場所で、メッカの方向を指すくぼみ・ミフラブがあります。イスラム教徒はメッカのカーバ神殿の方を向いて祈ります。以前にイスラム圏を旅したとき、ホテルの天井や部屋の机の中にまでメッカの方角を示す矢印があったことを思い出しました。くぼみの周りは金色のモザイクで装飾され、コーランの一節が描かれています。



中央礼拝堂。18世紀に作られたキリスト教の礼拝堂。中央がドーム型になっています。

こちらは聖歌隊席。周りの壁や背後の像は黒檀です。

オレンジの中庭。名前のとおり周りにオレンジの樹が植えられています。糸杉の向こうに見えるのはアルミナールの塔。イスラム教徒にとって、中庭はこの塔や礼拝の間と並んで、祈りの前に沐浴で身を清める大切な場所です。

たまたまオレンジの収穫期らしく無造作に実が集められていました。美味しそうだなあ…と眺めていましたが、添乗員さんの話では街路樹やここに植えてあるオレンジは食用ではないとのこと…なあんだ。


スペイン8日間の旅(8)

2014-02-12 10:08:14 | 旅日記

4日目(1月27日・月)グラナダ~ミハス~ロンダ~グラナダ

今日はグラナダから日帰りの小旅行といった感じの一日になります。ホテルを出て172km離れたミハスへ向かいます。

8時半というのに、ご覧のようなほの暗さです。スペインで感心したのは車の停止線にも赤いランプが付くこと。それなのに、このバイクは2台とも停止線をオーバーしていますね。

高速道路をひた走り、一般道にでると南へ向かい地中海の海岸にでます。コスタ・デル・ソル「太陽の海岸」はその名の通り陽光溢れる大リゾート地が続きます。晴れた日には対岸にモロッコが見えることもあるそうです。美しい邸宅や別荘が建ち並ぶ海岸から山手へ向かうと、立派なゴルフ場の横から曲がりくねった坂道になり、海を見下ろしながら峠を越えてミハスの町に着きました。

ミハス ミハス山麓、標高420mに山にへばりつくように白い壁の家がぎっしり建ち並んでいます。写真は後ほど闘牛場から撮影したものです。

バスを降りて坂道を登っていくと、お馴染みの形をしたポストが建っていました。ただし色はオレンジがかったイエロー。スペイン名産のヒマワリの色でしょうか?帰り道のいい目印にしっかり覚えておきます。

町名物のロバの馬車が通り過ぎていきました。

端まで歩いても10数分、小さな町のほぼ中央に広場があります。ここで自由行動になりました。左の細い坂道を登ると闘牛場ですが、まずは右の広い道を歩いてみます。

同じような家々がずっと続きますので、下り坂になったところで引き返しました。

ほどの交差点を過ぎてしばらく行くと教会があり、その横から直角に坂道が伸びています。入り口にサン・セバスティアン通りの標識がありました。

白い壁に掛けられた青い鉢と赤い花、足元の美しいタイル。坂道の突き当りまで登って引き返しました。

まだ自由時間が残っているので、闘牛場へ行ってみます。珍しく四角い形をしていて収容人員220人、スペイン最小の闘牛場です。この時期は闘牛は行われておらず、牛も闘牛士もお休み中。もっとも近頃は中南米でも闘牛が盛んになって、出稼ぎに行っている闘牛士もいるそうです。入り口は左にぐるりと回った処ですが、せっかくですので併設の闘牛博物館に入ります。

内部には闘牛に使われる衣装や道具などが飾られています。おっと白髪の老闘牛士もおりました。屋上に登ると最初の写真のように「白い町」の全景が見渡せます。

闘牛の様子を再現したミニチュア。

闘牛場の内部にも入ることができ、座席に座ってみました。

約1時間の自由散策ののち、85km離れたロンダへバスで移動します。ここでもバスが停まってすぐのところに闘牛場がありました。ここは近代闘牛の発祥の地で、後ろの白い建物がそうです。この銅像ですが、本当の牛はこんな3本足の立ち方はできないとか…。

ロンダは海抜約740mの岩だらけの台地の上にあります。この深い裂け目はタホ・デ・ロンダの名で知られるグアラ・レビン渓谷で、この谷を境に町は新市街と旧市街に分かれています。この見晴らし台の後ろには

旧市庁舎を改装した Parador de Ronda  (パラドールはスペイン語の「宿」ですが、比較的高級なホテルを指します)が建っています。前の道路にヌエボ橋が架かっています。

橋の上から見た眺めです。崖から川の底へ今にもずり落ちそうな感じで家々がしがみ付いています。

旧市街側に橋を渡り切った処から振り返ってみました。

新市街側は先ほどの風景は嘘のような立派な佇まいです。人通りが少ないのは、ちょうどシェスタ(siesta お昼寝)の時間で、観光客目当てのお土産屋さんや飲食店の他は殆どのお店がしまっているためです。 
 1時間ほど散策して、グラナダで連泊のホテルに帰りました。


スペイン8日間の旅(7)

2014-02-10 18:00:56 | 旅日記

スペインのエンターテインメントといえばフラメンコと闘牛。1月26日、グラナダのホテルで夕食を済ませ、フラメンコを見に行きました。今回はオプション・ツァー一切無しがウリだったので、ホテル主催のツァーに参加しました。

アルハンブラ宮殿近くのタブラオ(フラメンコのショーをするバーやレストランのこと)に着きました。

トルコ・カッパドキアのレストランを思いだすような洞窟レストランです。Tablaとは板のことで、タブラオの舞台は板張りの床です。その周りをぐるりと椅子が並んでいます。私たちの席は一段高いところで、ここの床も板張りで舞台にもなるようです。運ばれてきたドリンクを飲みながら開宴を待ちます。

ショーが始まりました。フラメンコはバイアオーレ(踊り手)とギタリスタ(ギター奏者)、カンタオール(歌い手)の三者が呼吸を合わせて独特の雰囲気を醸し出します。この男性がカンタオール。御歳に似合わず(失礼)高く澄んだ張りのある歌声を聞かせます。

ギタリスタもギターを叩いたり、弦をかき鳴らしたりと素晴らしい技を披露します。

しかし何といっても主役はバイアオーレ。このように指を鳴らしてリズムをとる「ピースト」や

力強く足で床を踏んで靴音でリズムを刻む「サパデアート」

鮮やかなスカート裁きで魅せる「ファルダ」など様々なテクニックを次々に繰り出します。

特に腕や手で喜怒哀楽を表現する様子は素晴らしいものでした。

かっこよい男性の踊り手・バイラオールは女性客に人気があるようです。

この人たちは15世紀頃にインド北部からアンダルシア地方に移住してきた流浪の民。そのため独特の風貌と文化を持っているといわれています。

しかし今ではスペインにすっかり根付いて、無形文化遺産にも指定(2011年)されたフラメンコです。

約1時間の熱気あふれるステージが終わり外に出ると冷たい夜風が心地よく、ライトアップされたアルハンブラ宮殿が夜空に美しく浮かんでいました。

*御用とお急ぎでない方は下のリンクから映像をご覧ください*

http://www.youtube.com/watch?v=kFPhf6s2rU0


スペイン8日間の旅(6)

2014-02-10 09:16:19 | 旅日記

コマレス宮一番の見ものはこの「アラヤヌスのパティオ」です。美しい柱廊で囲まれた中庭には細長い池があり、コマレスの塔を持つ建物が鏡に映るように水面にも浮かび上がっています。周囲の生垣にはアラヤネス(天人花・ギンバイカに似た淡紅色の花が咲く)が植えられています。

中庭南隅の「アべンセラへスの間」に入ります。ナスル王朝の有力な豪族・アベンセラヘス一族が陰謀を企んだとして王に皆殺しにされたと言われています。この水盤の茶色の染みは、その時の血の跡だそうです。

美しい天井の装飾です。

この部屋から有名な「ライオンのパティオ」が見えます。パティオ(中庭)を含むライオン宮は王の住居で、周りを124本の大理石の柱が取り囲んでいます。

中央の「ライオンの噴水」。12頭のライオンが口から水を吹きだしています。よく見ると一頭一頭の顔が違うのですが、百獣の王の猛々しさはなく、日本の狛犬のようで親しみを感じます。

二姉妹の間。王様の愛した二人の姉妹が住んでいたといわれます。天井の装飾は「ムカルナス」と呼ばれます。鍾乳石を基材として何種類かの小さな模様をモザイク状に組み合わせて、美しい曲線を描く蜘蛛の巣状にしています。外光を取り入れて万華鏡のように輝いていました。

大浴場を上から見たところです。もちろん蒸し風呂で、丸いところは天井の明り取り。



イスラム教徒にとって祈祷の前に体を清める大事なところで、宮殿の豪華な浴室では音楽が奏でられていたそうです。

リンダラハ望楼からアルバイシン地区を見渡します。ここは1492年(コロンブスの新大陸発見の年ですね)のグラナダ陥落までイスラム教徒が住んでいた町…

暑さを避ける白い壁の家が密集しています。カルメンと呼ばれる中庭を持つ邸宅も見えます。

王宮を出ると池を隔てて貴婦人の塔が見えます。この辺りはパルタル(屋根つきの柱廊)のパティオと呼ばれ、古い宮殿や邸宅があった処です。

王宮を出て、バスの待つ元のゲートへ帰ります。

「王女の塔」には数奇な物語が残されています。王とキリスト教徒の后の間に生まれた三人の娘。やがて捕虜となった騎士たちと恋に落ち、上の二人は塔を脱出し駆け落ちしますが、独り残った末娘はこの塔で短い生涯を終えたといいます。この話も、ずっと音声ガイドで案内してくれた日本人女性ガイドさんから聞きました。ゲートでレシーバーとイヤホンを返してガイドさんともお別れしました。


スペイン8日間の旅(5)

2014-02-09 09:19:49 | 旅日記

まもなくアルハンブラ宮殿(王宮)です。これはいわゆる王宮ではなくて、カルロス5世宮殿。5世は神聖ローマ帝国の称号でレ・コンキスタ(再征服)後ではカルロス1世になります。ミケランジェロの弟子の設計によるルネサンス様式の建築です。

外観は角張っていますが、内部に入るとこのようにコロッセウムを思わせる円形になっています。カルロス王は宮殿の完成を見ることなく亡くなり、資金難のため屋根は作られませんでした。

柱の模様と床のタイルが美しいです。

イスラム様式の門を潜って王宮に入ります。イベリア半島最後のムスリム王朝ナスル期に建設されアルハンブラ宮殿の中枢部でメスアール宮、コマレス宮、ライオン宮など複数の宮殿で構成されています。

メスアール宮。マチュカのパティオ。回廊に囲まれた庭園中央の池の周りにオレンジの樹が植えられていました。

メスアール(政庁)の間。ここで政務がとられ裁判も行われました。王宮の中で一番古い部屋ですが、何度も改築されているので補修の痕も見られます。

美しい柱飾りや…

寄木作りの天井が目を引きます。

隣りにある小さな部屋は「メスアールの祈祷室」。窓からはアルバイシンの街が見下ろせます。

「メスアールの中庭」にでます。中央に大きな噴水があります。正面はコマレス宮のファサードです。

ファサードの壁一面、鮮やかなタイルと漆喰で装飾されています。

 

回廊にはこんな展示品がありました。王が座った黄金の椅子(レプリカ)と「ジラフの壺」(キリンが描かれています)

多角形の燭台。

ファサードの左側の扉を入るとコマレス宮に続きます。 


スペイン8日間の旅(4)

2014-02-06 13:38:13 | 旅日記

2日目(1月26日・日)バレンシア~グラナダ

この季節にしては暖かい朝です。慌ただしく朝食を済ませて、7時45分出発。8時15分、ようやく太陽が顔を見せました。今日の空は真っ青で雨の心配はなさそうです。

石灰質の丘陵を朝日がバラ色に染めています。

バレンシア地方の名産・オレンジの畑が続きます。窓の外を眺めたり、時差ボケでウトウトしながら、添乗員さんが語るスペインの歴史を聞いていました。アルタミア洞窟の壁画で知られる先史時代はともかく、西ローマに征服されていた時代、イスラム勢力に支配された時代、キリスト教徒によるレコンキスタ(再征服・国土回復)…様々な変転を経てハプスブルク朝時代のコロンブスの新大陸発見という世界歴史上の大事件から始まるスペインの黄金時代。高校や大学の一般教養の世界史で詰め込んだ単語が次々出てきます。
 
494km離れたグラナダに着き、やっと昼食を済ませたときは15時半になっていました。そのあとのグラナダ観光は2時間余り、しっかり歩きます。

まず谷を挟んだ王宮やアルバイシンの街々を見ながらヘネラリフェへ歩きます。 

ヘネラリフェは王宮(アルハンブラ宮殿)東側の丘の上にあるムハンムド3世時代の夏の離宮です。かっては王宮と歩道で結ばれていたそうです。今ではヘネラリフェ南側入口でチケットを買ってからアルハンブラへ周遊するようになっています。写真は帰りに撮影したもので、右が南になります。

 

チケットのチェックのあと、緑のアーチをくぐると「下部庭園」に入ります。

 

この門から宮殿の内部に入ります。

アセキアのPATIO(中庭)。50mの掘割(アセキア)の両側から噴水が水音を立てています。この離宮が「水の王宮」と呼ばれる由縁となった美しい庭園です。バラの時期には更に美しい光景が見られるでしょう。

 

正面に見える「王の間」に入ります。

内部の壁や窓、天井などはイスラム様式の美しい模様で飾られています。窓からはアルバイシンの街を見下ろし…

対岸のアルハンブラ宮殿も間近に見えます。

上部庭園に入ります。

足元の歩道はそれぞれ別の川から運び込まれた黒と白の石で伝統的なグラナダ様式といわれるモザイク模様を描いています。

王が公務を離れて家族とともに過ごした避暑の離宮だけに、上部庭園も美しい噴水で涼しさを演出しています。私たちが訪れたこの日も、スペインの冬には珍しいといわれるほど気温の高い日だったので、全く寒さを感じませんでした。

離宮をでて王宮の方へ緩く下ります。

湧き水など貯めておく貯水池を見て…

右(西)に折れ、先ほど通ってきた通路を下に見下ろします。煉瓦作りの塔はテラ・デル・アグア(水の塔)と呼ばれます。

王の水路。夏の離宮を始めアルハンブラ全域にとって貴重な水を運ぶため工夫が、あちこちで見られました。

緑の茂みの合間からサンタ・マリア修道院を横に見て歩きます。

Abencerrajesの宮殿跡と言われる「考古学的ゾーン」を過ぎて… 

両側にお土産屋さんなどが並ぶ短い通りに出ました。

ヘネラリフェから約15分歩いて、いよいよアルハンブラ宮殿が近づきました。手前はサンタ・マリア教会、奥はカルロス5世宮殿です。


スペイン8日間の旅(3)

2014-02-05 16:15:38 | 旅日記

サグラダ・ファミリアの見学を終えて昼食の時間になりました。少し移動して市内のレストランへ。今日はスペイン名物料理のパエリアです。

出来上がった料理をコックさんが運んできました。しかしご飯に芯があり具材も貧弱、正直言って今一つの味でした。昔、志摩のパルケ・エスパーニャで食べたときは美味しい食べ物と思ったものでしたが…。

1.がレストランの外観です。2.この美少女がサーブしてくれました。3.レストランの内部 4.取り分けられたパエリア

バスで今夜の泊地・バレンシアへ。市内を抜けていきます。スペイン広場を通過。

続いてバルセロナFira Montjuicホール

市内には市内観光バスも走っています。私たちのバスは高速道に入りました。

約100km走ったタラゴナ郊外で下車してラス・ファレラス水道橋を見に行きました。古代ローマ・アウグストゥス帝時代に建造されたと思われる二層のアーチ形水道橋。高さ27m、全長249m。なぜか「悪魔の橋」という別名が付いているそうです。

エリカに似た花の咲く道を少し歩いて、橋の上に登りました。水路の中を真ん中辺りまで歩いて、腰をかけて下を覗いてみました。昔は水路に鉛の管が通っていました。また、ほんの僅かな傾斜で遠距離に水を運ぶため精密な計算が行われていたなど、古代の技術が優れていたことに驚きます。

オリーブ畑が続いています。タラゴナを出るとあとはバレンシアまで300 km近く乗りっ放しです。退屈しのぎにしばらく今日撮った写真からのクイズです。

Q.これは何でしょう?   A.カスターニャ音楽堂近くのゴミ箱。何を言っているのかは不明です。

Q.サグラダ・ファミリア入口の柱のカメ。左右の違いがお分かりになるでしょうか?
A.左は海亀、右は陸亀。写真では分かり難いですが、リクガメには蹴爪があります。

A.この紳士淑女は何をしているのでしょう?
Q.昼食のレストランでトイレの案内をしています。

進行方向の空に不思議な形の雲が浮かんでいます。しばらく前までは縁が美しく虹色に輝いた彩雲でしたが、残念ながら太陽に近く写せませんでした。長い一日もようやく暮れようとしています。


スペイン8日間の旅 (2)

2014-02-04 18:02:38 | 旅日記

サグラダ・ファミリア 日本では「聖家族教会」と呼ばれることが多いですが、正しい名称は聖家族贖罪教会です。1882年にフランシスコ・ビリャールが無償で設計した建築が始まり、1年半後に当時殆ど無名の建築家アントニ・ガウディが引き継ぎました。ガウディは生涯をかけた聖堂の完成を見ずに1926年に亡くなりましたが、その遺志を継いで現在も建築が続けられています。2010年11月、教皇ベネディクト6世により祝別されてバシリカ(大聖堂)となりました。 

新市街を抜けてサグラダ・ファミリアへ向かいます。バスの窓からにょきにょき突き立つ塔を横目に見て…

少し手前でバスを降りて、マリーナ通りを隔てた緑の多いガウディ広場から東側のファサードを一望します。完成すると三つのファサード(正面)になりますが、「栄光のファサード」はこれからの建築になります。この「生誕のファサード」はガウディが自らの手で最初に完成させようとしたファサードです。

4本の塔が広場の池に影を落としています。

生誕のファサード ナザレの聖家族とイエスの誕生の物語の彫刻が全面を飾っています。ファサードの前で現地ガイドさんからお話を聞きました。

 

1.ファサードの中層にある「受胎告知」。大天使ガブリエルがマリアに神の子の母に選ばれたことを告げる場面。2.「キリストの誕生」それを見守る父・ヨセフと母・マリア。両脇にはウシとラバも…3.「奏楽の天使」キリストの生誕を祝って6人の天使たちがハーブやバイオリンなどを演奏しています。主任彫刻家は日本の彫刻家・外尾悦郎氏です。4.「マリアの戴冠」キリストが聖母マリアに冠を捧げています。

キリストの誕生を告げる「ラッパを吹く天使」。まだまだ多くの彫刻があるのですが、この辺で内陣へ入りましょう。

十字架の形をした内陣はガウディが「広がりのある親しみ」を森に見立てたもので、36本ある柱が枝分かれしてドーム型の天井を支えています。



45mの高さの天井から光が降り注ぎます。

内陣奥の礼拝所。美しいパイプオルガンの音が流れてきました。

受難のファサード イエスの受難と死、そして復活を表しています。左下からS字場に上に見ていくと物語が完成することを後で知りました。…で、ごくごく一部ですが…

左上.「キリストの磔刑」キリストを失い悲しむ聖母マリアと慰めるヨハネ。右上「ペテロの否定」ペトロがキリストを知っていたことを三度否定したことを3人の女性で表しています。下の数字盤はいわゆる魔法陣で、縦横斜め四つの数字を足すと33になります。これはキリストの死んだときの年齢です。

 

 

「福音の扉」左の壁にはイエスの生涯最後の二日間を新約聖書から選んだ文章で刻み、前の床には聖書の物語が描かれています。

自由時間になり、初期の建設に携わった人々の子弟のための学校が保存されているのを見学しました。1.全景 2.授業風景 3.教科書などの教材 4.教室 です。また地下の資料室や博物館も見学しました。

栄光のファサード 現在建築中のこのファサードも含め、バシリカが完成するのはガウディの没後100年にあたる2026年と予想されています。1882年に礎石が置かれてから実に150年、営々と続けられてきた作業にはバルセロナ市民の熱意…というより執念すら感じさせられます。1時間を越える見学は、異教徒の私たちでも壮大で華麗な宗教モニュメントに圧倒される思いでした。キリスト教について興味を持つ人なら更に感慨深いものがあると思います。


スペイン8日間の旅(1)

2014-02-03 10:38:58 | 旅日記

1日目(1月24日・金) 大阪~ヘルシンキ~バルセロナ

フィンランド航空機で関空を昼前に発ち、15時10分にヘルシンキに着きました。凄く短いようですが日本とは7時間の時差があるので既に10時間20分、飛行機のシートで過ごしています。

乗り継ぎ便を待って、空港の中をブラブラして過ごしました。

給油や荷物の積み替えも終わり、いよいよスペインへ向かいます。目的地のバルセロナへは更に4時間のフライト。時差+1時間で20時20分に空港着。ホテルに着いたのは22時を過ぎていました。

2日目(1月25日・土) バルセロナ~タラゴナ~バレンシア

初めてスペインで迎える朝、7時45分というのに道を隔てて海岸に面したホテルにはまだ灯りが点っています。9時、ホテルをでてバルセロナ観光に向かいました。今回のツァーは総勢33人、添乗員さんは何とスペインだけで180回近い渡航歴のあるベテランです。長いバスの車中ではスペインの歴史と現状や文化、日本との関わりに至るまで、豊富な情報を伝えてくれます。しかも年号や細かい数字までメモも見ないでマイクに向かうのは驚きでした。

9時頃、高速を降りて市内に入りました。バルセロナは地中海沿岸に位置するスペイン第二の都市で、城塞を起源とする旧都市と整然と区画された新市街とに分かれています。凱旋門の前を通過して…。

カタルーニャ音楽堂の少し手前でバスを降りました。美しい街並みを見ながら少し歩きます。すぐこの先で左折すると

カタルーニャ音楽堂 です。20世紀初頭、カタルーニャ・ルネッサンスの時代に活躍した建築家ドメメニク・イ・モンタネールによるコンサートホールで、世界遺産に指定されています。中央上で剣を持っている彫像はこの町の守護聖人・サンジョルディです。

ちょっと中を覗いてみました。ホールへ続く階段だけですが、「モデルニスモ」と呼ばれた20世紀初頭のアールヌーボー様式の建築様式の一端をうかがうことができました。

モザイクタイルで飾られた美しい円柱にご注目ください。右に回ると建物正面になります。

正面入口両側の柱には小窓があり、チケット売り場になっています。ここでは現在でもクラシック、ジャズ、伝統音楽などのコンサートが開かれているのです。

建物の裏側に回ってみます。この小広場でも野外コンサートが行われるとのことです。ガラス張りの建物内部はレストランになっています。

小広場に再集合して、バスに帰りました。次はバルセロナ一番の観光名所「サグラダ・ファミリア」へ向かいます。サグラダ・ファミリア同様、バルセロナの生んだ天才建築家、アントニ・ガウディの手になる作品は市内に数々ありますが、車窓から見た一つが、

カサ・バトリョ です。1877年に建築された繊維業者の邸宅を1904~06年にかけてガウディがリフォームしたもので、世界遺産になっています。石やガラスの破片を張り付けた美しいモザイク模様の正面ファサードが見えます。美しい内部の装飾を見ることができず残念でした。

カサ・ミラ も車窓見学に終わりました。ガウディが実業家ミラの邸宅として手掛けた、直線部分が全くない地中海の波を表現したといわれる印象的な建物ですが、現在修復中で覆いが掛けられていました。

もっとよく見てみたかったと、少しあとで♀ペンの写したポスターをコラージュしてみました。左がミラ邸、右がバトリョ邸です。どちらもガウディの奇想が生んだだけに、あまり実用的ではない建物に見えます。カサ・ミラなどは「石切場」と酷評されてなかなか住み手がなかったとか…そのため今でも家賃は当時のまま変わらず(15万円ほど)4家族が住んでいるそうです。

*この旅行記はWikipedia や各種ガイドブックを一部引用、参考にしています*


スペイン8日間の旅

2014-02-01 20:50:09 | 旅日記

8日間、スペインへ行っていて昨31日昼に帰宅しまた。この冬の南ヨーロッパは天候不順が続いているようですが、旅行中は雨らしい雨にも遭わず、長いバスでの移動や時差ぼけにもめげず、元気に帰ってきました。まだビデオや写真の整理が終わっていませんが、とりあえずご報告します。

1日目(1月24日・金)昼前に関空を発ち、ヘルシンキで乗り継ぎ、バルセロナには20時20分に着きました。短いようですが日本との時差が8時間ありますので、15時間近い空の旅です。すぐホテルに直行しましたが、あまりよく眠れませんでした。

2日目(1月25日・土)さっそく「芸術の街」バルセロナの観光です。

スペイン最初の観光はカタルーニャ音楽堂。20世紀初冬のアールヌーボー様式を伝える建築物として世界遺産に登録されていますが、今でも現役でクラシックからジャズまで様々なコンサートが開かれています。

アントニ・ガルディの遺志を継いで営々と造営が続けられているサグラダ・ファミリア(聖家族教会)。三つのファサードは言うまでもなく、内部の装飾の美しさは驚嘆の一語に尽きます。車窓から市内のガルディや他の建築家の設計による美しい建物を見て、パエリアの昼食後はバレンシアへバスで移動。

途中、タラゴナでローマ時代の遺物「ラス・ファラレス水道橋」を見ました。上の水路を真ん中あたりまで歩いてみました。

3日目(1月26日・日)バレンシアのホテルを出て500km近く離れたグラナダへ。ここは一時、イスラムの勢力下にあった処で、建築物にもその文化様式が色濃く残っています。14時を過ぎて遅い昼食を採り、そのあと丘の上に建つアルハンブラ宮殿を見学。

夏の離宮・ヘネラリフェのアセキア庭園を含めて約2時間半、ゆっくりと見て歩きました。

ホテルで夕食を済ませて、ホテル主催のツァーでフラメンコを観に行きました。この地方に多い洞窟の中の劇場で約1時間にわたって、情熱的なショーをたっぷり楽しみました。

4日目(1月27日・月)グラナダから172km離れたミハスは、白い壁の家々が建ち並ぶ美しい街です。ぶらぶら歩いて、お土産を買ったり、スペインで一番小さいという闘牛場に入ってみました。

残念ながら、この季節は闘牛が行われていませんが内部を見物して観客席にも座ってみました。

またバスで85km離れたロンダへ。切り立った断崖絶壁の上の岩だらけの台地に築かれた小さな町です。ここでもしばらく散策したあと、グラナダへ帰りました。この夜は連泊です。

5日目(1月28日・火)延々と続くオリーブ畑の中を167km走ってコルドバへ。歴史遺産の街並みを散策しました。
メスキータはスペイン語でモスクの意味。もとはイスラム寺院であったものをレコンキスタ(再征服)後、キリスト教会に改築された建物です。前の橋はローマ橋。

そのあと花の小径で名高いユダヤ人街を散策しました。

午後は410km先の首都・マドリッドへ。途中、ドン・キホーテで有名なラマンチャの丘に建つ白い風車群を観ました。夕方の丘の上は物凄い風で吹き飛ばされそうでした。

6日目(1月20日・水)スペイン広場でセルバンテスやドン・キホーテ主従に挨拶した後、世界三大美術館の一つプラド美術館の見学。現地ガイドの詳しい説明を聞きながらベラスケスやゴヤ、グレコを中心とした名画をじっくりと鑑賞しました。居酒屋風料理・タパスの昼食後、最後の観光地トレドへ。

町全体が美術館と言われる美しい古都で、奈良と姉妹都市を結んでいます。

カテドラル見学も含めて、上り下りの多い迷路のような坂の町を約2時間歩きました。マドリッドのホテルへ帰ってスーツケースの整理をして、翌朝は早いので早めにベッドに入りました。

8日間といっても残り二日間は帰国の飛行機の中です。それでも時差と追い風に助けられて行きよりは短く感じました。

1月31日(金)⒑時前に無事、関西空港に着き、旅行中に知り合った新しい友人たちと別れを惜しんで家路につきました。
詳しい旅行記は次回からレポートします。