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ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

古寺と湖岸なぎさの散歩道(2014.05.24)

2014-05-26 17:24:22 | 旅日記

初夏というより夏そのものの土曜日。イタ友(2011年のイタリア旅行で知り合った友人グループ)恒例の「夏の会」で大津に行きました。

今回の担当幹事は草津在住の丸さんです。恒例のようになったWalkingのあと、大津プリンスホテルで遅めの昼食会という企画です。9人(時間的に午後の食事会から参加の方が二人)のメンバーがJR大津駅前で、久しぶりに懐かしい顔を合わせました。京阪京津線の踏切を渡って西へ坂道を登っていくと、長等(ながら)公園に入ります。明治からある古い公園で、桜の頃は素晴らしい景色だったという丸さんの話です。園城寺の別所・近松寺の前を通り、長等山不動尊にお参りしたあと、少し下って三橋節子美術館へ。

病気で右腕を失い、最後の二年間は左手に絵筆を握って僅か35歳で夭折した女流画家。彼女の没後40周年記念企画として、夫の鈴木靖将氏の作品とともに「魂の出会いと別れ」をテーマにした作品の数々が展示されています。ゆっくり鑑賞したあと、三井寺へ向かいます。

美しい朱色の楼門が立っています。大津市指定重要文化財「長等神社楼門」で古式を踏まえた明治時代の秀作です。門を潜って本殿に参拝しました。後で資料を見ると、天智天皇の世に都の鎮護としてこの地にスサノオノミコトを祀ったのが起源で、清和天皇のとき園城寺の開祖智証大師が日吉大神を勧請合祀して園城寺の守護神としたという由緒ある神社です。境内の「馬神社」も印象に残りました。

神社の横に「三井寺南参道」の文字が見えますが、北へ歩きます。大津絵の店(まだ閉まっていました)の前を通り、琵琶湖疎水の上を横切って園城寺(三井寺)の正面へ。昔、西国三十三ヶ所巡りをしていたとき二度、それ以外にも来たことがありますがすべてマイカーで、歩いてきたのは初めてです。堂々たる仁王門の前で記念写真。居合わせた方に、いのっちさんのカメラで撮って頂きました。

天台宗総本山の園城寺は大友皇子の建立で、天智・弘文・持統天皇の産湯に用いられた「御井」があることで「みいのてら」と呼ばれてきました。仁王門をくぐり、受付を済ませて正面の石段を登ります。

本堂にあたる国宝の金堂にお参りしました。北政所寄進の桃山建築です。


(丸さん撮影)

鐘楼。近江八景「三井の晩鐘」で知られる梵鐘が吊るされています。音色が美しく「日本の残したい音百選」に選ばれました。

閼伽井。三井寺の名の由来となった霊泉です。指さして見上げているのは…



閼伽井覆屋上部の「左甚五郎作の龍」。夜な夜な抜け出して琵琶湖で暴れるので目に五寸釘を打たれたとか。
弁慶の引き摺り鐘は、三上山のムカデ退治のお礼に竜宮から貰った鐘を俵藤太が寄進。弁慶が比叡山へ引きづり上げたが「イノー」となるので、谷に蹴落とされたとか、有名な伝説が残されています。

開祖智証大師の廟所・唐院の灌頂堂と三重塔。

観音堂。西国十四番札所。本尊の十一面観音像が御開帳中で拝観しましたが、薄暗くてよくお顔を拝めませんでした。

展望台に登ってみました。石段を登ると台地に「そろばん発祥の地」の碑があり、眼下に大津市街地を見下します。先月登った三上山は湖を隔てた向こう側に近江富士の名にふさわしい山容を見せています。

境内の堂塔の背後に比叡山。遠く比良連峰が霞んでいます。

東の方角には湖南アルプスを背にして、他のビルの上に突き出した高い煙突のような大津プリンスホテル。これから、あそこまで歩きます。



急傾斜の階段を直下降すると長等神社横へ出ました。左の石垣の中が馬神社です。

琵琶湖疎水は三井寺の下を通って蹴上に通じています。去年晩秋のイタ友会では、南禅寺から疎水沿いの紅葉の道を歩きました。

三井寺駅を過ぎて「大津絵の道」を湖岸へでました。歩道に大津絵が埋め込まれ、両側のお家の前にはさまざまの美しい花々が咲き乱れています。車の往来の激しい国道を渡り、外輪船ミシガン号が停泊している大津港へ。湖の駅浜大津のを横目にして「なぎさ公園」に入ります。カンカン照りの夏日になりましたが、湖から涼しい風が火照った体に心地よく、若者のグループや子供連れなど大勢の人が青空の下で休日を楽しんでいました。

釣竿を垂れている人に誰かが尋ねると、アユが釣れるそうです。ドームテントも一張り見ました。急に青春時代にこの琵琶湖(もっともっと北ですが)でヨット遊びをしたことを思い出しました。明智左馬之助湖水渡りの碑や常夜灯など見ながら歩くうちに、だんだんホテルが近づいてきます。

東へ歩いてきた道がぐるりと南へ回って、13時過ぎ、大津プリンスホテル入口に到着。満開のヤマボウシ越しに見上げる38階に冷たいビールが待っています。企画から下見までして下さった丸さん、本当にありがとうございました。


聖地高野山(2014.05.18)

2014-05-21 15:53:34 | 旅日記

良く晴れた日曜日の高野山は各地からの大勢の参詣客に加えて、外国からの観光客も大勢訪れていました。金剛峯寺前の駐車場は満車で、壇上伽藍裏側の観光バスも置いてある路上駐車の列に加えて貰いました。

車道を高野山の総門である大門まで歩きます。宝永2年(1705)再建の高さ25.8mの堂々とした二層の楼門で、江戸時代の仏師・法橋運長作の金剛力士(仁王さん)も力に溢れて睨みを利かせてます。

大門から各寺院が並ぶ大門通りは、今は車の行き交う国道になっています。600m離れた壇上伽藍に歩きます。壇上伽藍(金剛峯寺のHPでは「壇場伽藍」)は、空海が理想とする真言密教の胎蔵曼荼羅世界をこの世に具現したものとされています。現在、再建作業中の中門横から域内に入ります。

空海の創建当時は講堂と呼ばれた金堂。何度かの火災の後、現在のコンクリート造り建築は昭和7年のもの。修法が行われている堂内に参詣し見学しました。

壇上伽藍には何度か訪れているのですが、いつもこの金堂と根本大塔の写真を撮るくらいで終わっていました。今日はゆっくり巡拝するつもりで「登点の松と杓子の芝」の横から、六角経堂へ。鳥羽法皇后・美福門院が法皇の供養のために金泥で書かれた一切経を収めたお堂で、これも昭和の再建です。

御社(俗に高野明神)。空海が山麓の天野から高野山鎮守のために勧請した三社で、高野明神(二宮)の他に丹生明神を祀る一宮、多くの伴神を祀る三宮が鎮座しています。

山王院。御社の拝殿として建設され、現在でも重要な儀式の場になっています。

西塔。空海の伽藍配置計画に基づいて仁和2年(886年)建立された高さ27mの多宝塔です。周囲は杉の古木で囲まれています。

孔雀明王を祀る孔雀堂(左)と准胝観音を祀る准胝堂

逆指しの藤(さかさしのふじ)。祈親上人が一時荒廃した高野山の再興を誓い、地面に逆に植えたところ芽生えたという伝説のフジ。

三鈷の松。弘法大師空海が唐から帰国する際に投げた三鈷(宝具)がこの地に落ちたという伝説の松。そのため三葉を持つと言われます。

御影堂(もと空海の持仏堂で、真如親王直筆の「弘法大師御影像」を安置)と「三鈷の松」の後ろに根本大塔が見えます。密教の源、根本という意味をもつ優美な塔。壇上伽藍のシンボルといえます。 

東塔。天保14年(1843年)に焼失後、昭和59年(1984年)にようやく再建された美しい塔。

蓮池。昭和の初め頃まではハスで覆われていたということです。

他にも多くの堂塔がありますが、この辺りで…。ようお参りくださいました。 


高野~竜神の旅(2014.05.17~18)

2014-05-20 16:55:09 | 旅日記

高野三山を歩いたあと、宿に入るまで少し時間があるので金剛峯寺に参詣しました。

良く知られるように、高野山は標高1,000m前後の8つの峰に囲まれた区域全体の名称で、一大宗教都市を形成しています。しかし実際に来てみると「頭に浮かべていたイメージとはかなり違う」というのが、初めて高野山を訪れた丸さんの率直な感想でした。三輪子さんも子供の頃に林間学校で来て以来ということでした。私たちも2006年以来8年ぶりです。翌日、コンビニの前に座ってコーヒーを飲んだのですが、「こんな店があったかな?」と思ったのも道理で、実は去年(2014年)7月に高野山に初めてできた店で、肉や刺身は売っていないそうです。 

金剛峯寺は高野山真言宗総本山で、全国の末寺は3600あると言われます。

門を入ると、参道の両側に今を盛りとシャクナゲが咲いていました。

豪壮な建物の内部や有名な「ばん龍庭」は時間がないので拝観できませんでしたが、

老杉に囲まれて深山の趣の寺域に咲き誇るシャクナゲの花や…

「かご塀」の緑に苔生した檜肌葺きの屋根と白壁の対比の美しさに見とれました。西に傾いた陽が白い壁を、ほんのりとシャクナゲのピンクに染め上げています。

時間にせかれるように、延長42.7kmの高野竜神スカイラインを龍神温泉へまっしぐら。龍神温泉は日本三美人の湯の一つ(他は、出雲の湯の川温泉と群馬の川中温泉)として知られています。役行者が発見、弘法大師・空海が難陀龍王の夢のお告げで開湯したので「龍神」の名がついたと伝えられる、修験道と所縁の深い温泉です。

日高川の清流の畔、その名も「美人亭」が今宵の宿です。まずは山の汗を流そうと熱めのお湯に浸かると、本当に肌がつるつるする感じです。

夕食には野趣豊かな料理が並びました。
お品書きは「自家製梅酒、いたどりの胡麻和え、大根なます、こんにゃくの刺身、天然アマゴの塩焼き、熊野牛すき焼き、山菜炊き合わせ、季節のてんぷら、手作り漬物、竜神産白ご飯、味噌汁」デザートは梅ゼリー。
 熊野牛はボリュームたっぷり、てんぷらはユキノシタ、イワタバコ、コゴミ、コシアブラ、タラの芽でした。イワタバコの葉を食べたのは初めてでした。

せせらぎに鳴く河鹿の美声を聴きながら眠り、朝からまた温泉に浸かりました。朝食にはアユの一夜干しがでましたが、これがなかなかの美味でした。

京奈和道が部分開通したので、奈良に帰るには高野山に引き返して橋本に出るのが最速とのことで、再び高野山へ引き返しました。

日曜日のスカイラインはレーサー気分のバイクが多く、中にはセンターラインを割って向かってくる輩までいて、丸さんは運転に気を遣います。

ほぼ中間点の護摩壇山森林公園で一服。左の「ごまさんスカイタワー」から護摩壇山に続く稜線が呼んでいます。帰り途のついでに、護摩壇山にも登ることにしました。

タワー前の駐車場に移動して、護摩木を積み上げた形のタワーの横を登ります。木の段の間に石を敷き入れた遊歩道のような道を僅か10分あまり登るだけですが、身体がほぐれるまでに少し手間取りました。

丸さん撮影

護摩壇山は日本300名山の一つで標高1372m、和歌山県田辺市龍神と奈良県吉野郡十津川町の境にあり、源平屋島の戦いに敗れた平維盛が、この山頂で護摩を焚き一門の行く末を占ったという伝説があります。
 
山頂には休憩舎と「和歌山県朝陽夕陽100選」の標識、護摩壇を象った大きな山名版が立っています。永らく和歌山県最高峰とされてきましたが、東に見える山頂にNHKのTV無線中継塔が立つ山、龍神岳の方が10m高いことが分かり、その座を譲りました。
  2004年には
稜線伝いにアップダウンを繰り返して、当時は耳取山と呼んでいたこの山へ往復したのですが、今日は時間的に無理なのでここまでにしました。それでも山頂からの雄大な眺めに満足して、高野山へ向かいます。


五月晴れの丹波路花巡り(続)

2014-05-08 17:54:33 | 旅日記

5月6日午後は丹波のフジの名所を二ヶ所訪ねました。

丹波市市島町にある白毫寺は「九尺ふじの寺」として知られる天台宗のお寺です。慶雲2年(705)法道仙人開基と伝えられ、頂いたパンフレットの縁起によれば『入唐求法から帰朝の際に白毫寺を訪れた慈覚大師円仁は、周囲の山並みが唐の五台山に似ていることから山号を「五台山」と命名(後世に五大山と改称)し、…』とあります。駐車場前には「丹波高原登山案内図」が立っていましたが、これには五台山(654.6m)と五大山(569.2m)が別のピークとして描かれています。2004年6月、地元のYさんのご案内で五台山から五大山へと歩いたことを懐かしく思い出しました。

寺域に入り短い石段を登ると、薄紫色の幕を垂らしたような120mに及ぶ長い藤棚が出迎えてくれます。棚の下にはベンチが置かれて、大勢の人が腰を下ろしてフジの花を愛でていました。

滝のようになだれ落ちる花の房は確かに壮観ですが、九尺(2.7m余)はいささか大げさで、1m数十cmほどの花穂の長さでした。

花の香りが辺りに漂い、ハチも飛んできます。

フジの他にも四季折々の花が植栽されていて、丈の低いシャクナゲも立派な花をつけていました。

新丹波七福神霊場でもあり、この宝船の横には大きな「なで布袋」さんも座っておられました。

そして何故か境内に孔雀が飼われていました。まさか、九尺→くしゃく→クジャクのシャレではないでしょうが…。綺麗に羽根を広げて見送ってくれました。

今日最後の観光は朝来市和田山の「白井大町藤公園」です。平成11年5月に完成した面積7,000平方メートルの広い公園で、おりから「藤まつり」が開かれていて、大勢の人が連休最後の日を楽しんでいました。

公園の藤棚は幅4m、総延長は500mもあります。

大きな樹から舞い降りる白いフジ

公園中央の噴水

ここでは花色の違ったフジが楽しめます。

鯉幟の並んでいる下は貯水池「大町池」の堤です。100段ほどの階段を登って堤の上に登ってみましたが、やはりフジは下から見た方がよさそうです。それなのに何故大勢の人が…と思っていましたが、実は中段に見える緑の芝生で「餅まき」があるのを待っているのでした。そういえば盆踊りに使うような紅白の幕をめぐらした櫓も建てられていました。バスは餅まきの始まる5分前に出発して帰途につきました。

暦の上では夏を迎えた次の日、五月晴れの丹波でたくさんの花たちと出会えた楽しい一日でした。


五月晴れの丹波花巡り(2014.05.06)

2014-05-07 16:47:17 | 旅日記

連休最終日、一カ月ぶりの丹波へ。ただし今日は奈良発の日帰りバス・ツァーです。

まずは永沢寺の牡丹園へ。花菖蒲で有名な「えいたくじ」は、お寺の名前とばかり思っていましたが、実は地区の名前でした。今の時期はシバザクラとボタンの花が見ごろで、少し離れた場所で別々に開園されています。

枯山水風の庭園前からビニールハウスの牡丹園に歩きます。

この辺りは標高が550mあるので、暑さに弱いボタンの栽培には好適な立地条件になっています。

早や花期の盛りを過ぎたものもありましたが、まだまだ色とりどりの花が艶を競っていました。

菖蒲池の周りを巡っていきます。大小の水車が一列に並ぶ向こうに、名残のサクラが見えます。

園内では緑の中の真っ赤なモミジも美しく(1)、足元に咲く可愛いニワザクラ(2)やイカリソウ(3)など、他の花もたくさん咲いていました。4のサクラの下のツツジはまだ咲き始めたばかりですが、右に見える道の奥にミズバショウの群生地があります。地元の人の話では、すでに花は終わり一か月前が全盛期だったそうです。



道を隔てた永澤寺(こちらは「ようたくじ」と読みます)にお参りしました。
応安年間の1370年頃(室町時代)に通幻禅師の開基になる禅寺で、広大な寺域領を持っています。

境内は至るところにオダマキが咲き乱れ、真っ赤なボケの花や…

スズランも群生しています。

妙高閣には高さ9.2mの大観音像の他に、ガンダーラ美術の石造彫刻10数点が展示されていました。
見どころの多い由緒あるお寺ですが、時間がなくてゆっくり参拝できなかったのが残念です。

昼食場所の篠山に向かう途で「お菓子の里・丹波」でトイレ休憩。本館の他にこの茅葺の家や

神戸の旧垂水署を移築改装した大正初期の洋館「ミオール館」、ドイツ館、薬師山山荘などが広い敷地の中に点在しています。ここもトイレ休憩に立ち寄ったついででしたので、辛うじてミオール館の内部を見せて貰っただけの慌ただしい観光に終わりました。(続く)


丹波の正倉院・達身寺(2014.04.11)

2014-04-12 09:55:40 | 旅日記

清住の「カタクリの里」から700mの距離に曹洞宗の古いお寺があります。

両側にスミレ、タンポポ、ヒメオドリコソウ、イヌノフグリ、ハコベ…いろいろな春の野草の花が咲き、あちこちで桜の花が咲く道を、のんびりと歩いていくと、茅葺の本堂と白い壁のお寺がだんだん近づいてきます。

お寺の前からみた美しい丹波の春の風景です。

スイセンで有名なお寺だけに門から本堂への道にも花が並んでいます。
達身寺は寺伝では行基菩薩の開基とされていますが、歴史的には不明な
ことも多いそうです。平安から鎌倉にかけての木彫仏がたくさん残されているので「丹波の正倉院」とも呼ばれています。

本堂に入ると大黒さんと思しい女性が裏の収蔵庫に案内して、このお寺や仏像について詳しく説明して下さいました。
写真は撮れませんので、頂いたチケットとパンフレットをご覧ください。上の写真の毘沙門天と十一面観音の二体はいずれも国の重要文化財で
、後ほど案内されたコンクリート造りの宝物殿に保管されていました。

このパンフの右上の写真のように、木彫仏像が多いのですが殆どが一木作りです。右下の本尊・阿弥陀如来は寄木作りで江戸時代末期に修復された美しい彩色が残っています。作りかけの仏像なども拝観しましたが、このことからこのお寺が「仏師の工房ではなかったのでは?」との説もあるというお話でした。パンフレットにもある通り、謎の多いお寺です。ゆっくり拝観して宝物殿を出ました。

建物の裏側に小規模ですがカタクリの自生地がありました。

本堂の方に帰り、お庭の方へ回りました。スイセンを始めユキヤナギ、ミツマタ、クロモジなども咲いています。由緒ありげな大きなツバキの樹もありました。この建物は毘沙門堂で仏様は宝物館の方に移られています。このお寺には何故か毘沙門天が16体もあり、そのことも「仏師の里」説の根拠になっているようです。

庭園を登っていくと、先ほどの写真に映っている鳥居の神社へ続く道になり、一帯は達身寺公園になっています。

鳥居を潜って石段上にある神社にもお参りしました。鳥居の横にはシャクナゲが真紅の蕾を開き始めていました。

いろいろな仏様と花に出会えて、ゆったりとした癒しのひと時を過ごせたことに感謝して家路につきました。


高取「町家の雛めぐり」(2014.03.11)

2014-03-13 21:08:30 | 旅日記

城下町高取の「町家のひなめぐり」も今年で8回目。私たちは第二回の2008年、第三回の2009年に訪れていますので、今回は5年ぶり三度目になります。訪れる人も増えている様子で、ウィークデーの今日も大勢の人がお雛様との出会いを楽しんでいました。

高取山を下り、ウメの花が美しい砂防公園に着いたのは13時過ぎ、橋のたもとに「77番」を指す案内がありました。ちょうど登ってきた男性とご一緒に、少し上にある梅本家へ登っていきます。

声をかけて玄関の戸を開けるとご主人が出てこられて、高取城や周辺の美しい写真も見せて下さいました。この辺りは上子島といい高取山の西北山麓にあたり、私たちが降りてきた城址からの道は、高取の町からお城に上る「大手道」になります。

水車小屋を横に見て、緩やかに下っていくと大きな馬のお雛様が見えてきました。上小島元気広場です。左に見える黒い馬も模型です。

係りの人の説明によると、いわゆる「ジャンボ雛」は三か所にありますが、ここ上子島が最初で今年で4年目とのこと。「これからも地域のみんなが力を合わせて、干支に因んだ動物のお雛様を作っていく」と話されました.

ここから5分ほどで長屋門に着きました。高取藩の城代家老の屋敷で、門の両側に4軒づつ中間部屋がありました。白いナマコ壁が江戸時代の武家屋敷表門の面影を伝えています。現在は旧藩主・植村氏の居宅になっています。

すぐ前が土佐町(土佐街道)から壺坂道への分岐点「札ノ辻」。右手奥が長屋門になります。鳥居のように見えるのは復元された「松の門」。囲みのなかは児童公園です。ここは武家と町家との境界だったそうです。当時さまざまな「御触れ」の高札が掲げられたので「札ノ辻」。石柱に「右つぼさか」の文字が残り、公園角の石柱にも「右 観音院道 是ヨリ十六丁」とあります。前の石畳の道がメインの土佐街道ですが、私たちは右の壺阪寺へ通じる道に入ります。

「お里沢一の墓」がある信楽寺に詣り、緩い登り坂になっている町並みを行くと清水谷絆広場、今日の「雛めぐり」で是非とも見たかった「貝合わせジャンボ雛」です。60歳以上の地域の方15人が一か月かかって作り上げた高さ5mのお雛様。「この世でぴったり合う貝は一つしかない」と最愛の人に巡り合う願いが込められています。

広場と通りを隔てたお家の軒に「見上げてご覧ください」という札がありました。二階からお雛様が並んで覗いています。ここが93番で99番が朝に通った壺坂口バス停になります。

「札ノ辻」に引き返す途中で今回も増本家のお雛様を見せて頂きました。金屏風を背にしたお雛様とご家族で丹精込められた手作りの品がマッチしています。今年はお嬢様が嫁がれるとのこと、本当におめでとうございます。

「札の辻」から北へ歩くと「雛めぐり」のメイン会場「雛の里親館」があります。会場に入って左側にある「天段のお雛様」は徳島県勝浦町から預かった雛人形と聞いていますが、天に届けと段上に飾られている数百体のお雛様は圧巻です。

右手には今年の企画展「ジャンボ雛とミニ雛」。奈良の伝統工芸「一閑張り」のお雛様です。

そして見上げると無数の「吊るし雛」。ていねいな説明をして下さった上、記念写真まで撮って下さった係りの人に感謝して会場をでました。

次の広い通りの辻(黒い牛と幟の最初の写真の場所)を少し左に入るとギネス広場です。名前の由来はこのビールの空き缶で出来た高取城。淡麗グリーンラベルの石垣を始め35679本のキリン缶ビールによるオブジェで、ギネスブックで認定されました。後ろのテントの中に企画から制作、完成に至るまでの住民の皆さんの姿が紹介されていました。

それぞれのお家の雛飾りをすべてご紹介できませんが、このような御殿飾りや…

竹から生まれたようなお雛様(高取にも竹取物語に因んだ伝説が残るそうです)、古くからそれぞれのお家に伝わってきた大切なお雛様、手作りの愛情のこもったお雛様と、各お家ごとの様々な趣向が見られます。

陽が西に傾いた頃、「観覚寺なかよし広場」の三つめのジャンボ雛に会いました。カメラを向けていると、横のお家から出てこられた若い女性が「午前中は光線の具合が良かったのに…逆光だからここから撮れば」とお家の影を勧められました。

楽しい「雛めぐり」もそろそろ終わりです。この催しに
町を挙げて取り組んでおられることに、また出会った町の方々の皆さんが、私たち訪問者になにかと話しかけて下さる「おもてなし」に深い感銘を受けて、壺阪山駅に向かいました。 


スペイン8日間の旅(12)

2014-02-20 08:42:21 | 旅日記

6日目の午後は最後の観光地・トレド。首都・マドリッドから南に70kmにある、古代ローマ時代から様々な異なった民族の支配を受け、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教と異なった宗教の混在する独自の文化を残す世界文化遺産の街です。

まず、町を巡るように流れるタホ川の対岸を時計回りに南側の高みにある展望台・ミラドールへ登り、町全体を見晴らします。

左奥にカテドラル、右奥にアルカサルが見えます。いったん、この写真の左手の方を下って



タホ川に架かるアルカンタラ橋を見て、別の橋で再び川を渡ります。

バスが停まる寸前、こんな乗り物が窓の外を通過しました。ソコトレインといって町を一巡する観光バスです。

ソコトベル広場でバスを降りました。ソコトレインは各名所を巡りますが、途中下車なしでここが唯一の発着場。私たちは狭い町の中を散策します。

坂の多い、迷路のように入り組んだ町を、迷子にならないように早足で歩くガイドに必死でついて歩きます。行く手に美しい塔が見えてきました。

カテドラル スペイン・カトリックの総本山です。この前で10分休憩ですが、スリやヒッタクリが多いとかでおちおちブラついてもおれません。

壮麗なファサード

見事な塔と、外観だけ眺めはしましたが実は「下車観光」で、内部のステンドグラス、絵画、展示物などは見る時間がありませんでした。

再び狭い町の路地を歩いて名残惜しげに振り返ります。このあとサント・トメ教会に入り、有名なグレコの「オルガス伯爵の埋葬」の絵を見ました。



トレドは要塞都市として栄えた町で旧市街にはあちこちに城壁が残されています。

バスに乗った処にもこんな美しい城壁が残っていました。

城壁にはいくつかの門が開いていて、その門もそれぞれ見応えがあります。「スペインに一日しか滞在できなかったら迷わずトレドに行け」という格言があると、「るるぶ情報版」に書いてありました。そのトレドに僅か2時間の滞在ですから、アルカサルを始めまだまだ見たいところがあって、とても心残りです。

この日、マドリッドへ帰り昨夜と同じホテルで連泊しました。翌1月30日、10時マドリッド空港を発ち

フィンランドのストックホルムで乗り継ぎ、北極圏の海を飛んで14時間の飛行で翌31日午前10時前、無事、関空に帰りました。8日間とはいうものの実質は6日間のスペインの旅でした。予想外に暖かくて過ごし易く、雨が降ったのはバスの中だけで傘も使わずに済みました。期待した以上の楽しい旅でしたが、もし再訪できる機会があれば、今回訪ねなかったセビリアを始め、マドリッドやトレドの町をゆっくり歩いてみたいと思っています。長い間お付き合い頂いて、ありがとうございました。(終)


スペイン8日間の旅(11)

2014-02-19 11:30:27 | 旅日記

6日目(1月29日・水)マドリッド~トレド~マドリッド

レコンキスタ、新大陸発見、大航海時代とスペインが大いに繁栄した1561年、トレドからここに都が移されて以来、マドリッドはスペインの首都になり、政治・経済・文化の中心として発展してきました。昨夜は遅く着きましたので、今日はゆっくりと、9時にホテルを出て市内の観光です。

美しい公園や建物を次々に通り過ぎますが、残念ながら車窓からの観光では、座席の関係もあって自由に写真も撮れません。これはシベーレス広場 Plaza de Cibeles。中央のシベーレス(ギリシャ神話の女神・キュベレのスペイン語読み)噴水に因んだ名前です。後ろの建物はコムニカシオネス宮殿(ビデオカメラで撮影したものをキャプチャ、トリミングしました。)

王宮やマニョール広場はあっという間に通り過ぎました。ようやくスペイン広場 Plaza de Españaで下車。ここで現地のガイドさんと合流します。スペイン広場は3年前訪れたローマを始めグアム島や東京にまであるそうですが、やはり本場はここでしょう。

セルバンテスの没後300年を記念して造られた広場の中央には、大きな塔の下にセルバンテスがどっかと腰をおろし、その前にサンチョ・パンサを従えたドン・キホーテの銅像がありました。

スペイン広場から始まる大通り、グラン・ビアを走りプラダ美術館の前に着きました。1819年、スペイン国王の命で王家のコレクションを公開したのに始まる世界三大美術館の一つです。

10時の開館時間になりました。既に大勢の人が列を作っています。

収蔵作品2万点、全部見るには何日もかかりますが私たちは10数人ずつに分かれ、ガイドさんのイヤホンの説明を聞きながら1時間20分ほど主な作品だけを見て回ります。(写真はチケット・団体券?15€と日本語の館内ガイド)

最初に入った部屋の奥に架かるこの絵に、まず目を引かれました。宮廷画家ベラスケスのラス・メニーナス(宮廷の侍女たち)です。美術には疎い私にも、立体感のある表現力、描画力の凄さは分かります。(後でガイドさんが「今でいう3D」と言っていました。)傍に近づくと手前の犬の毛並みまでくっきりして、今にも飛び掛ってきそうです。中央のマルガリータ王女、肖像画を描いている画家ベラスケス本人、鏡に映る肖像画の対象・フィリペ4世と后…圧倒される思いで鑑賞して、この部屋だけで何分いたでしょうか。引き込まれるように見入っていました(館内は撮影禁止ですので、写真はお土産に買った絵葉書からスキャンしました。)
 
他にも多くのベラスケスの作品やエル・グレコの「胸に手を置く騎士」などの作品を鑑賞しましたが、一番強烈な印象を受けたのはゴヤの「我が子を喰らうサトゥルノ」です。絵葉書がありますが、あまりにも不気味なグロテスクな絵ですので敬遠します。

これもゴヤの作品。上は「1808年5月2日、エジプト奴隷兵との戦い」、下は「1808年5月3日の銃殺」。ナポレオンの新略に抵抗する市民と、その最後を怒りを持って描いた傑作です。


一転して謎の美女「裸のマヤ」と「着衣のマヤ」。当時、裸婦像はタブーだったので依頼者の宰相・ゴドイさんだけが、こっそりニヤニヤ鑑賞したのでしょうか。


これもゴヤの、上は「カルロス4世の家族」。ここでも画家自身が登場しています。下は「日傘の女」です。

鑑賞を終えて、売店でお土産の絵葉書を買って外に出ました。すぐ前は青空を背にした聖・ジェロニモ教会です。

いつも私たちが時間を持て余す免税店でのショッピング・タイムののち、ランチ・タイムになりました。日本でいうと居酒屋風の気軽なお店で、タパスを食べます。生ハムや焼きマッシュルーム、イカのリング揚げ…などなどの一品料理ですが、これが今回の旅行で一番私たちの口に合いました。実はスペイン料理は調味料に砂糖を使わないので(その代わりデザートが超甘い、もちろん料理に出汁は使わなし…)味付けが単調なせいか、あまり美味しいとは思いませんでした。(もっとも、安いツァーの料理だったせいもあるでしょうが…。)

上はレストランのトイレ案内の紳士・淑女。下の左はメトロの入り口と市バス。右は下水の蓋にあった「マドリッド市章」。山桃を取ろうとするクマさん。この絵と同じ銅像はプエルタ・デル・ソル「太陽の門広場」で見たのですが、写真に撮れなかったので、せめてもの代用です。さて、お腹も膨れてホロ酔い気分で最後の観光地・トレドへ向かいます。


スペイン8日間の旅(10)

2014-02-16 16:48:13 | 旅日記

 

(5日目・1月28日続き)メスキータを出て北西の方へ数分歩きます。細い道の両側に美しい花で飾られた白い壁の家が並んでいます。ここは8世紀の頃、ユダヤ人に作られた「ユダヤ人街」で、この細い路地は「花の小径」。奥の方から歩いて来ました。振り返るとメスキータの塔が見えます。

レストランで昼食を済ませてローマ橋対岸のバスに帰り、遠くからメスキータを見てコルドバに別れを告げました。今夜泊まるマドリッドまでは約410km、途中のラマンチャ地方のPuerto Lápice(プエルト・ラピセ)という小さな町で少し長めのトイレ休憩になりました。

さすが「ラ・マンチャの男」ドン・キホーテで名高い土地柄だけに、トイレの標識もこの通り…。

セルバンテスが何度も泊まったという小さな宿で、今は「ベンタ・デル・キホーテ」というレストラン。中庭には、槍を持ったドン・キホーテが立っています。(トイレは写真左の建物)

博物館も併設されていて作者・セルバンテスの使った机や椅子、文房具などが保存されています。

興味深かったのは、世界各地で出版されたドン・キホーテと従者サンチョ・パンサが活躍する本の展示です。右下の本の挿絵はドラゴンと戦うドン・キホーテが描かれていますし、その左の浮世絵風の挿絵は「稲村ケ崎の新田義貞」そっくりですが説明には「ドン・キホーテは鎧の騎士」とありました。実に貧相な顔やし、わけ分からん…。

こっちは有名な風車と戦う、騎士ならぬ武士です。よく見ると風車じゃなく水車じゃありませんか!

さて、しばらく走るとコンスエグラという町に入ります。細い町並みを抜けて小高い丘へ登っていきます。しばらく前から降っていた雨は止みましたが、凄い風です。

ここには11基の白い風車が並んでいます。風車は回らないようになっています。

上の写真手前に見える丘に登ってみました。行政からの補助金に頼らずに村の人たちが大事に保存しています。一つ一つの風車に名前が付いていることからも愛着ぶりが分かります。



風車がたくさんあるくらいですから、普段から風の強い処ですが、それにしてもあまりにも強い勢いで飛ばされそうです。慌ててここだけ入口の開いている風車に入りました。村の人たちが保存のために有料で内部を見せてくれています。ココア付きで1.5€(200円余)の協力金を払って螺旋階段を登ります。

古い木製の歯車です。壁に「風車小屋の構造」「どのように動くのでしょう」といった日本語の解説が張られていました。

3階建てほどの高さにある窓からはコンスエグラの街が一望できました。ここからマドリッドまでは130km。ホテルについて荷物を部屋に運び、夕食が始まったのは20時30分になっていました。