宮応かつゆきの日本改革ブログ

●日本共産党
総選挙で市民と野党の共闘で政権交代を、共産党の躍進をめざします。

「スターリンの準備した『51年文書』」-「日本共産党の80年史」より(4)

2020年02月19日 | 野党連合政権への展望

 日本共産党が、徳田・野坂分派により中央委員会が分裂させられ、彼らが中国、ソ連共産党と共謀して日本共産党に、あまりに大きな犠牲をつくり出した「軍事方針」を押し付けた「主役=張本人」は誰か、その脇役ー代理人は誰だったのか。

 戦後、日本共産党は、第4回党大会を1945年12月、第5回党大会を1946年2月に開催し、「平和宣言」で、「日本共産党は、現在進行しつつある、わが国のブルジョア民主主義革命を、平和的に、かつ民主主義的方法によって完成することを当面の基本目標にする」と述べています。

 さらに、1947年12月、第6回党大会を開いています。この大会では、「アメリカによる占領政策の転換があきらかになりはじめたときに、第6回党大会が、『ポツダム宣言の厳正実施』と『日本の完全な独立』の旗をかかげたことは、日本のあたらしい進路をしめす、きわめて重要な意義をもちました」(「日本共産党80年史」91頁)

 戦後の激動する情勢の発展のなかで、日本の進路、展望を弱点をかかえながらも、「平和的、民主主義的方法」で開拓する方向が明確に確認されていました。そうした事態のなかに、「軍事方針」なるものが乱暴極まる方法で押し付けられてきたのです。以下、「日本共産党80年史」(2003年1月初版)から、見てみたいと思います。

【スターリンの準備した『51年文書』」(「同書」111~113頁)(一部「略」)

「スターリンは、1951年4月、徳田、野坂ら『北京機関』の幹部をモスクワによびよせて会議をひらいて『四全協』を支持し、党の統一回復を主張するものを『分派』ときめつけました。会議には、中国共産党の代表王稼祥も参加しました」

「スターリンは、この会議で、みずから筆をいれた『日本共産党の当面の要求ーあたらしい綱領』(「51年文書」)をつくり、『日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである』と結論づけました。のちに『五全協』で決定された『軍事方針』も、この会議で準備されたものでした」

★「四全協」「五全協」「六全協」などの会議は、徳田、野坂分派が、正規の中央委員会を破壊し、彼らの「方針」を「決定」するために開催した、規約に基づかない非正規の会議の名称です。

「スターリンとの最後の会議には、袴田里見も参加しました。袴田は、日本共産党の統一回復をもとめる中央委員の側が、党中央の解体と党分裂の真相を説明するために、50年末ごろ中国をへてソ連に派遣されたものでした。ところが、袴田はスターリンに屈服してしまい、51年8月には、『自己批判』を発表して、徳田、野坂らの分派にうつりました」

~中略~

「51年10月、徳田・野坂分派と『臨中』(同派がつくった「臨時中央指導部」)は、スターリンのつくった『日本共産党の当面の要求ー新しい綱領』を国内で確認するために、『第5回全国協議会』(5全協)をひらき、『51年文書』と武装闘争や武装組織づくりにいっそう本格的にふみだすあたらしい『軍事方針』を確認しました」

「この方針による徳田・野坂分派の活動は、とくに、51年末から52年7月にかけて集中的にあらわれ、『中核自衛隊』と称する『人民自衛組織』や山村根拠地の建設を中心任務とした『山村工作隊』をつくったりしました」

【党と革命の事業に大損害ー国会議席はゼロ、党員数は数分の1】

「これらの活動に実際にひきこまれたのは、ごく一部の党員でしかもどんな事態がおこったかの真相は、これらの人びとにさえ知らされないままでした。しかし、武装闘争方針とそれにもとづくいくつかの具体的行動が表面化したことは、党にたいする国民の信頼を深く傷つけ、党と革命の事業に大損害をあたえました」

「党の受けた打撃の深刻さは、総選挙での党への支持が、49年1月の298万4千票から、52年10月の89万6千票、53年4月の65万5千票へと激減したことに端的にしめされていました」

「48年当時は35人をかぞえた党の衆院議員も、52年10月の総選挙では当選者をだすこともできず、53年4月の総選挙でようやく1議席を回復する状態にまでおちこみました。同月の参議院選挙でも、議席を獲得できませんでした」

「こうして、実情を知ることもなく、スターリンの干渉作戦と分派の活動にまきこまれていった全国の党員と党組織は、活動をひろげようにも国民的な信頼をえられず、逆に、支持をうしなうという、つらくきびしい党生活をよぎなくされました」

「不当な除名処分をうけたり、党員としての誇りと名誉を傷つけられ、党に絶望して離党した党員も少なくなく、党員数も49年当時の数分の1程度に激減しました」