じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

鷲田清一「死」

2023-08-13 10:35:41 | Weblog

★ 京都新聞「天眼」のコラム。哲学者の鷲田清一さんの「『反省』の時?」を読んだ。

★ 鷲田さんの論稿は高校の教科書に採用され、大学入試問題にも時々見かける。哲学者の言葉は難しい。何を言っているのかわからない。どういうことなのかと2度、3度読み返し、運が良ければわかったような気になり、ほとんどの場合、わからないままで終えてしまう。

★ わかるわからないは別として、わずかな時間でも考えるきっかけをつくってくれることに意味があるのかも知れない。

★ 今回のコラム。リアルな体験として老いに直面する鷲田さんが、わかりやすい言葉で日常を語られている。日々「思いどおりにいかないことが増えてきた」「そのつど立ち止まるよりほかない。嫌でも状況を、そしてその中のじぶんを省みる」。「視線の習慣をひっくり返」し、「ものに『合わせる』『従う』ということを日々覚えている」。「年老いて新しい経験をいろいろしだして」「それがちょっぴり面白く思えるようになった」という。

★ そして最後の段落。ヴァルター・ベンヤミンの言葉で締めくくられている。朝日新聞の「折々のことば」でも紹介された「根本的な新しさはひとつしかない。そしてそれは常に同じ新しさである。すなわち死」(「セントラルパーク」久保哲司訳)

★ どういう意味なのか。それを考えるために鷲田清一さんの「<ひと>の現象学」(ちくま学芸文庫)から「死 自然と非自然、あるいは死の人称」を読んだ。

★ 誰にも訪れる「死」。だから「死」は誰にも新鮮であるが、屍体となってしまえばそれ以上の意味はない。他者の「死」は「死者」として認識できるのだが。 

★ そして最後の一文がまた刺激する。「死は生に意味を与える無意味である」。果たしてどういう意味だろうか。

☆ 日曜の朝から難しい本を読んでしまった(笑)。小林秀雄の「無常という事」を読み返す。

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