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「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

大物見探訪

2007-06-13 18:03:43 | 遠野
 ぶれんど仲間の山猫氏の物見山撤退を受け、同じくぶれんど仲間の宝飯爺氏が、大物見まで見事踏破され、そのレポートがアップされたばかりだが、私もどうしても行ってみたいという衝動に駆られ、愛車である濁酒特区スッケ号(フルタイム4WD)を操り、踏破して参りました。


 九重沢辺りから・・・

 左端に有名なブラックボックス邸が見えます・・・笑


 6年前、新車だったスッケ号にて、物見山へ向かいましたが、道の左右から木々が生い茂り、傷だらけでマイクロウエーブまで行ったことがございました。
 遠野の町や松崎、青笹方面の画像をと目論んだのですが、記憶の中の姿とはだいぶ違って、木々が生い茂り、眼下の景色を見ることができず、まさに空振りといった思いが残った探訪でした。

 中学生の頃の遠足か何かで一度、さらに高校時代に名物うさぎ狩りで2度、物見山に行っておりますが、当時は、マイクロウエーブ下の西側の丘陵地は、木々がなく草地で、まさに其処でうさぎ狩りをしたのですが、30年の月日は、その風景を一変させておりました。


 宝飯爺さんのレポートによると、大物見で何やら建物を建てているらしいということで、クレーン車まで入っているという情報、道幅も広くなり、案外走りやすいとのこと、確かに以前よりは道幅も若干広く、草木が道の左右から迫るといったことは今回はありませんでした。

 マイクロウエーブから大物見までは、私にとっては未踏の地、こちらもレポート通り、若干走りやすい道が付けられておりました。

 途中の木々の間からの風景

 
 この画像を撮る際、はて?この方面は何処か?と正直思いました。
 物見山からみて東側には相違ないが、下に見える学校らしきものは遠野小学校か?・・・しかし橋が見えるし、上早瀬橋か?・・・・。

 しばらく考えていたが、ようやく納得、中央の橋は上早瀬橋、グランドは遠野中学校、中央の山は八幡様、その奥は土淵ということに気付きました。
 海上、駒木も見えていたんですよね・・・・汗




 マイクロウエーブから5分程度ですかね、工事現場に到達、これ以上は進めないらしい・・・確かにクレーンも投入され、工事関係車両も10台ほど・・・・。

 天気がよければ太平洋も見えるらしいが、こちらも木々が生い茂り、何も見えない・・・。



 今回は、大物見にあるという石組の狼煙台跡を見たいという思いがあったが、何処にあるのか見当もつかない、さらに草木が生い茂っているし、工事も行なわれ、探訪できる環境ではなかったと反省・・・・。

 いずれ、下見ということで納得、晩秋の頃にでも再訪となりそうです。
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伊能嘉矩

2007-06-12 21:36:10 | 遠野
 遅ればせながら、遠野市立博物館で開催中の企画展「伊能嘉矩」に観て参りました。

 遠野が生んだ日本民族研究の先学者である人類学者伊能嘉矩の功績を称え、特に情熱を注いだといわれる明治28年に日本の領土となった台湾の調査研究について多くの人たちに理解を深めてもらおうと開かれたものです。市立博物館の展示ブースには伊能嘉矩の出生などの他、主に台湾での調査研究を中心にその資料や集大成となった「台湾文化志」などおよそ100点が展示されています。また、今回はとぴあセントラルコートにも写真パネル16点を展示し、伊能嘉矩の学生時代や台湾での様子を見ることが出来るということです。市立博物館企画展「伊能嘉矩と台湾研究」は6月29日まで・・・・遠野市民は無料です。

                   遠野テレビ紹介文より抜粋



伊能嘉矩


 慶応3年5月9日(1867)遠野町新屋敷(東館)に生まれ、父親は伊能守雄、母親は千代子。
 母親の千代子が嘉矩が3歳の時に死去、父である守雄は、医学に志を立て、遊学へと旅立ち、祖父母によって養育された。 

 祖父は、伊能友寿(ともなが)で遠野南部家臣で家禄7石5斗のいわば下級家臣であったが、江戸や仙台にて遊学し、武芸、兵法を修めたといわれる。

 また、神道を崇拝し、八幡宮の神官も勤め、現花巻市東和の小原実風(平田篤胤門下)で国学も究めた偉人でもある。

 伊能嘉矩の功績等、何を成した人物かは、ネット検索でもかなりヒットいたしますので、各々お調べになられてください。

 大正14年(1925)59歳で逝去。
 菩提寺の大慈寺に眠っております。


 学界空前の大著「台湾文化志」をはじめ、上閉伊郡志、遠野史叢・・・今日の遠野郷土史、民俗分野にも多大な影響を与える著書があり、その先駆者でありその功績は偉大であると思います。

 こういった企画展を開催、久しく観る事がなかったので新鮮でもありました。
 地元学の構築、まさに博物館は、うってつけの施設かと思いますので、今後も色々と企画して開催してほしいものです。

 
 6月12日、気温が上昇、日中は30度近くはあったものと思います。

 緑の南部曲屋

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社寺工舎

2007-06-11 06:42:35 | 遠野
 6月12日(火)
 午後10時~・・・NHK総合で放映の「プロフェッショナル仕事の流儀」
 
 駒木が誇る、いや遠野が、いやいや岩手が世界に誇る宮大工、菊池恭ニ氏(社寺工舎代表)の特集がございます。

 お見逃し無く・・・。

予告はこちら
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間もなく始動

2007-06-10 14:37:38 | 遠野
 遠野ぶれんど の一如さんがアップしておりましたが、スリスリ猫話題を末娘にしたところ、是非に会ってみたいということで、山口の水車小屋へ・・・・。



 2週間程まえは、ピンクの躑躅やら黄色い花もありましたが、今は次の花までの準備期間か、より一層濃くなった緑一色の世界でもありました。


 はて、猫が居ない、今日はどこかでお昼寝中か、半分諦めていた矢先、駐車場のトイレ裏の草むらから登場。

 私としては、2月以来の再会、春先には姉妹猫と思われる三毛と会ったが、スリスリ猫は、こちらが本命、かつてバトルを繰り広げた経緯があるが、敵さんがあえなく降伏・・・・笑


 目の前に来て、ゴタッ、と横たわる、戦いどころではない。




 さて本題・・・・

 6月8日、早池峰登山訓練から帰参、予定時刻を30分ほどオーバー・・・。


 早池峰山頂付近・・・残雪があるも例年よりやはり少ないらしい・・。


 帰参すると直ちに荷物及び使用器材の整理、後片付け、着替え等をして、反省会、慰労会の会場である、たかむろ水光園へ移動。

 トロン温泉でサッパリと汗と疲れを流し慰労会へ突入・・・・。
 
 訓練での反省点などを話しながら40分程度か、同僚達と杯を傾けるも、予てから遠野ブロガー写真展に向けての最終の詰めの会合兼懇親会も予定されており、早々に席を立ち、義妹を呼んで町に向かう・・・。



 19時開宴の予定、私が顔を出したのが20時少し前、既に6名の仲間が集まり盛り上がっておりました。

 今回は駿河の国から、遥々お越しの山猫氏の歓迎会も兼ねての集まり、21時過ぎには、2人の遠野女性ブロガーが合流する手筈でして、ほぼ予定通りの時刻に合流、さらに飛び入り参加もあって、場は大いに盛り上がる。

 結局、それぞれ話が弾み、23時過ぎに一次会がお開き・・・・二次会は、いつもの親不孝に移動して、さらに大盛り上がりとなる。

 結局、26時過ぎの解散、飲んで語って歌って・・・・考えようによっては贅沢で至福な時を過ごしたかもしれません。




 ピンクのブタさんに関しては、決して悪気があってこのようにしたものではございません。お許しを・・・・
 笛吹さんから笛を取り上げ・・・・・?


 妖怪睡魔君が時折、彼を呼びに出没するも、なんとか撃退したようでもあります。
 タイミング良くマイクを渡す、歌う・・・これに限ります・・・笑




 アリスの次はピンクレディメドレー?



 今回もふざけた画像ですみません。


 いずれ「遠野人ブログ写真展」とでも名付けましょうか?
 9月初旬から2週間程度の開催、こちらの方は、後日に会場等も含めまして要項がまとまり次第、各ブログでご案内する予定です。

 さらに写真募集に関しては、遠野発信のブログ、遠野関連ブログ(遠野市外在住、遠野もブログで時折紹介している)のブロガーさんは、遠野を題材とした写真限定2枚の応募、その他、遠野が好きで写真だけはあるという方々は限定1枚、最低サイズA4版として、8月25日〆切といたします。

 応募先も後日、そして詳しくお知らせいたします。


 写真応募に関してのお問い合わせは、当ブログ並びに「遠野くさぐさ」ブログまで、お願いします。
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早池峰登山訓練

2007-06-09 12:46:28 | ファイヤー
 毎年、山開き前恒例となっている早池峰登山及び山岳救助訓練のため、同僚達と早池峰山へ登って参りました。




 天気が危ぶまれましたが、下界はまずまずのお天気、午前9時に職場を出発して、遠野側からの登山口、小田越に午前10時到着。






 小田越到着後、直ちに身支度を整え、資器材を携帯して登山開始。

 1合目付近の樹海には、まだ残雪が残る。
 さらに、2合目を遙かに望み、小休止。


 薬師岳及び監視小屋


 2~3分程度の休憩後、出発。
 標高400メートル、比高100メートル程度の山なら、城館跡探訪で慣れているとはいえ、やはり1900メートル級の早池峰山、そして登山を趣味としている訳でもないので、体力的に考えれば、最後尾でゆっくりと・・・そんな思いでの静かなスタートとなった。


 途中、高山植物で名高い早池峰山の草花でも愛でながらの余裕もありました。




 途中、5分程度の休憩2度、小休止3度で、なんとか8合目に到達。
 1合目から5合目がきつかったかな、その上の7合目までは、比較的楽で、いよいよ難所である鎖場へ・・・・。



 山の天候は変わりやすい、今回は此処8合目の鎖場付近での救助訓練が予定されている。
 少し周囲等に目を凝らしてから頂上を目指す。




 山頂部の平坦地は、残雪に覆われていた。
 小雪の暖冬だったとはいえ、やはり早池峰山の山頂部は別世界でもありました。



 ガスに覆われ視界は低いが、最高部の剣ヶ峰に至るとガスも徐々に晴れ渡る。






 12時、無事に頂上に着くと、北海道から来たという20名弱の男女のパーティが昼食中、彼らとしばし歓談しながら共に昼食。
 彼らは花巻大迫口の河原坊へ下山するとかで、午後12時半頃、出発して行きました。

 途中、5合目でひとりパーティから遅れたという北海道から来たというご年配の男性がおりましたが、このグループの一員であろう・・・。

 午後1時近くに、この男性も到着、なんでもパーティのコーディネートされた方で、この人が下山しない限り、バスも出ないということで、余裕の表情・・・お近づきの証拠に共に記念撮影をして、いよいよ13時、我々も下山しながらの山岳救助訓練へ出発。




 鎖場に到着すると、訓練概要の説明、資器材の点検、想定を付与されまずは訓練の為の訓練、いわゆる要領等をひとつずつ確認しながら訓練開始・・・。



 訓練が始まると一時的にスッキリと晴れ渡る。




 本訓練開始・・・・
 
 防災ヘリの出動も見込めない、地上部隊が現地に赴き、難所である鎖場から負傷者或いは急病人を、一時的に安全と思える場所へ移動させる訓練。











 
 我々が登ったコース、小田越ルートよりハードである河原坊コース 



 15時、2時間に渡る訓練を終了して、下山となりました。 

 最初はニヤケテいた我膝小僧、下へ行くにしたがって大笑いが止まらず、小田越えに着いたときは、笑いすぎて顎が外れる、すなわち両腿が痙攣・・・・辛・・・

 数日後に筋肉痛に見舞われる予定です・・・


 いずれにしても、早池峰山含みの山岳救助要請が無いことを祈るのみです。


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駒木地獄山

2007-06-07 19:05:47 | 歴史・民俗
 駒木の奥、土淵の西内に越える小路より東南に走る峰上にあり。
 松が十余本、その根元に直径3.6m位、短径1.8m位の楕円形の塚があり、その前方は石を積み重ね一字一石(小石に一字書いたもの)がその間を埋めて、塚内にも埋積している。

 昔、愛児を失った人々が、その冥福を祈り、塔婆と草履をあげて拝んだものなり。

 松の木に耳を寄せると、小児の声が聞こえるという伝説があった。





 この地獄山は、峰伝いに狭いが細長く平場があり、その平らな部分にいくつも小石の森があった。
 その場所を通る人が石森に小石を積み上げ、時折、小石が崩れていたそうです。
 
 地元古老が少年時代、夜に鬼が現れて小石の森を崩したものだと、大人達に言われたそうです。

 今は林となり、その場所もわからない状態となっている。



 耳切山から、駒木、松崎、遠野方面(6月7日)


 地元駒木とはいえ、なかなか行き着ける場所ではなく、またこの存在をする人々も極めて少ないのが現状でもあります。

 私の親父と同年代、上駒木に生まれ育ったご年配の方々が、辛うじてその場所の記憶をとどめているが、近年この方々が大人になり山仕事等で、たまたまその地を見たという人が僅かにいるのみ・・・・。

 昔、駒木(妻ノ神)から海岸方面へ通じる小道があり、土淵の西内に出て、小国(川井村)方面や大槌方面を往来したといわれます。

 この地獄山は、その道から若干外れているが、いつしか我子を失った母親等が訪れ、その冥福を祈った場所であるというが、その道筋が私には不明であり、数年前からそれとなく古老達から聞いてはいるのですが、大雑把な場所は想像ができますが、具代的な場所がわからない、現在の牧道のどの辺りから、旧道に入ったらよいのか、その下見に妻ノ神へ・・・・・。

 しかし、道路に横たわるビヘーと2度遭遇、やはり時期が悪い、しかも遠くでは雷の音、耳切山の頂部辺りまで行ってUターン・・・。





 荒川高原方面から雷雲が・・・ポツリポツリと雨も降ってきたということで、今回は撤退、こちらも初冬の頃か春先の探訪となりそうです。



 

 8日は、早池峰山岳訓練、その後、軽く反省会兼慰労会、そして遠野ぶれんどノモー是かだろう会、充実しそうな一日となりそうです。
 遠野ぶれんどには若干、遅れる可能性有り・・・・

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遠野物語ゼミナールTOKYO 弐

2007-06-05 12:34:47 | 遠野
 6月2日、かなりひどい二日酔いながら、旅行とかに出かけたり、飲んだ次の日、多少具合が悪くても、結構早くに目が覚めるんですよね。

 体調がイマイチながらも、会場である武蔵野公会堂(吉祥寺)へ向かいました。











 遠野市職員さん、遠野物語研究所の方々、数名と軽くご挨拶後、どんな方々が来るのだろうと受付近辺にてウロウロ、どうやら遠野から来た一般受講者は自分ひとりであろうと確信する・・・・汗


 午前10時開講



 定員300名ということでしたが、ほぼ満席。

 
 昼休みに遠野物語研究所のK先生と若干お話しをしたが、申し込み締め切り日近くまでは、予定人数の半分の150名位だったそうですが、急に申し込みが殺到して予定人数近くまで増えたらしい、さらに当日の駆け付け受講者も20名近くいて、まさに盛況でもありました。


 さて、今回は早くからこのゼミナールの開催をキャッチ、3月中頃だったと思いますが、直接遠野物語研究所へ出向いて申し込みをする。
 
 自己研修との位置づけ、さらに私が目指す遠野郷土史分野との接点、遠野物語と遠野を離れた地から見ること、そしてできれば遠野外の方々との交流を含んだ情報、意見の交換もしたい、そんな思いから、早期に申し込みをしておりました。

 
 今回、受講してみて私が思ったのは、遠野物語が無かったら遠野はどんなところであったか、まさに遠野物語は遠野にとって宝、財産といっても過言ないものと確信いたしましたし、このことにより観光含め遠野物語がその基となっている事実があり、今後、遠野物語の舞台となった遠野をどのように守り、伝えて行くのかと・・・・幸、遠野は、遠野物語の舞台となった雰囲気が今もなお数多く残され、イメージし易い環境でもあると思います。 

 


 松崎、土淵方面(5月下旬の風景・・高清水から)


 遠野物語という核を主としつつも、物語舞台としての土壌が残される遠野は、歴史的財産というべき史跡や伝承、文化も数多く残されている貴重な地でもあり、私が目指す郷土史分野との接点のみならず融合することも十分出来うる環境でもあるとあらためて思ったところでもあります。

 我々、遠野人は先祖から受け継がれた文化、伝統、歴史を継承しながらも、遠野を訪れる平地人・・・笑・・・つまり遠野外の方々とも交流し、意見をいただきながら、これらを守り伝えること、これが絶対必要であると強く思いました。

 


 おまけ

 中央線なる電車に乗り、新宿なる駅に降り立つと、駅構内は人という波が濁流の如く渦巻く様相を呈していた。
 
 その流れに身をゆだね、ヨチヨチ歩きの幼児の如く、時にはペンギン歩きにて、流れから弾き飛ばされないように、また正面、真横から来る流木に当らぬよう東口を目指したのであった。

 しばらくするとぽっかりと口を開けた階段がある。
 流れに逆らうことなく、そのまま階段を駆け上がる・・・まさに驚愕、表に出るや、人、人、人・・・・・どこからこのような人が湧き出てくるのか、遠野祭りの10倍はいるのだろう・・・いやっ、もっといる、たまげたどころではない、尋常ではないその光景にただ唖然とするしかないっ、が、私の後から後から湧き上がる人々の波に呑まれて前へ前と押し出され、否応無く歩みは日本一の大歓楽街、歌舞伎町へと誘われるのであった。


 

 今時のワゲ者・・・お前はべごか、と思わせる鼻環にタグ打たれたと思わせる耳、日本人だろうが尋常でない色黒の男女、歳の離れた腕組みカップル、胸と太ももを露に思わず鼻血でも吹き出るかと思うほどの美形女、初夏とだというのに毛糸の帽子・・・・人間観察もまた興味深い。




 いずれにしろ、じぇんご太郎には刺激が強すぎる眠らない街、歌舞伎町であった。
 
 滞在時間30分、宿をとった上野界隈へ移動、こちらも都会ながらも何故か落ち着くのであった。


        ごんどはらい・・・・どんどはれ
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遠野物語ゼミナールTOKYO壱

2007-06-03 14:43:44 | 遠野
 6月1日、予てより申し込みをしていた遠野物語ゼミナール東京会場参加の為、武蔵野市へ行って来た。
 
 3月中旬に要項が示され、仕事が休みかも確認しないまま、即申し込み、受講票は№2であった・・・。

 朝2番の新幹線、新花巻駅では、市の幹部職員の方々と偶然かち合う、やはり武蔵野出張とのこと、軽く世間話やら明日の遠野物語ゼミについて話をして同じ新幹線にて上京。
 ただし、一応一般参加の私としては個人行動でもあり、一人明日の下見を兼ねて吉祥寺へ向かった。






吉祥寺北口界隈

 まずは東京の小さな遠野を探しに例の場所へ・・・・



 中央線沿いに西へ向かう。



 狭い通りを300メートルくらいですかね、看板を発見。
 難なく行き着けた・・・。





 アンテナショップ「麦わら帽子」
 武蔵野市と交流のある市町村の特産品等を扱うお店ですが、まだ昼前というのに狭い店内は20名位の方々で混雑しており、詳しくは取材しませんでした。

 

 遠野物語ゼミナールが開かれる武蔵野公会堂を下見し、宿をとった中野へ移動、昼食を食べた後、時間潰しにサウナで休憩、朝早かったので寝入ってしまい、夕方慌ててホテルにチェックイン、荷物を置くと久しぶりに会う知人と待ち合わせの為、八王子へ・・・・。







 八王子は東京の端という印象であるが、大きな街で、キャンパスなんかも周囲に沢山あるらしく、駅前は学生さんと思われる多くの若者でごった返していた。


 6年前にホームページを開設した直後、遠野阿曾沼氏や南部氏関連でネット上で知り合い、その後、北奥羽の城館跡を調べられていた関係で、4年前に遠野の館跡をご案内したことで、さらに親密なお付合いをさせていただいておりますI氏と待ち合わせ、仕事のことや歴史話で大いに盛り上がりました。

 翌日に備え、2時間程度の宴席と考えていたが、10時過ぎまでは記憶があるが、話が弾み、かなり酔ってしまったらしい。
 見知らぬ土地、そして大都会でなんとも怖い話であるが、どうやって中野のホテルまで帰ったか記憶がほとんどない、朝、気が付いたらホテルの自室で寝ていた・・・大汗

 よって遠野物語ゼミナールには、結構きつい二日酔いで参加することになりました・・・汗


 宿泊した中野サンプラザホテル19階より・・・・。


 スカッと晴れ渡り、新宿副都心の高層ビル群が眩しい・・・・。

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