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「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

平田合戦

2007-06-18 20:14:06 | 歴史・民俗
 慶長5年(1600)遠野の政変で、遠野を追われた旧領主、阿曾沼広長の失地回復戦、その一回目の激戦地。(慶長6年)

 気仙郡上有住、平田砦跡(外根岸館)



 合戦の概要は下記の説明板のとおり・・・。




 遠野騒動とも言われ遠野にとっては重要な戦いが、この平田の戦いを含め、赤羽根峠の戦い、樺坂峠の戦いと3度繰り広げられ、結果的には、旧主、阿曾沼広長は敗退、遠野は完全に南部氏の勢力下となった。

 長らく、遠野郷土史界では、平田合戦は、釜石の平田坂での戦いと語られ、通説化していた経緯がありましたが、近年の研究等で、住田町史、陸前高田市史をはじめとする気仙地方の自治体史で、平田の戦いは、ここ気仙郡住田町での戦いであることが、明らかになっている。

 未だに従来の通説を語る遠野の古老もおられますし、ウエブサイト等でも遠野の歴史を紹介する際に引用等しておりますが、住田町内で伝承されていることから、ほぼ平田の戦いは、気仙郡内の平田砦近辺で行なわれた戦いであろう。

 釜石平田説を語る上で、広長率いる気仙勢は支援する伊達勢と合流、さらに広長に協力的な大槌城主、大槌孫八郎広信の軍勢と釜石で合流、千人峠を越えて遠野へ攻め入る予定だったといわれる。

 が、当時、釜石は遠野盟主となった鱒沢左馬助広勝がいち早く狐崎城を把握し、城主の荒谷肥後が守備しており、まずは此処を抜かなければならない、結局、狐崎城は、後に伊達勢の攻撃で落城するが、気仙勢の釜石への侵攻は、伊達政宗の意向が左右しているともいわれますが、失地を早く回復したい阿曾沼広長にとって、遠回りともとれる釜石からの遠野侵攻は、少々無理があるのではないのか、大方語られるように、遠野勢は気仙勢の機先を制すべく、気仙郡世田米へ出陣、平田砦に駆けつけた気仙勢の大将格、浜田喜六の手兵と激戦を繰り広げ、その異変を察知した世田米の気仙勢本隊が駆けつけて、さらに激戦となったものと私は推測しております。


 こちらも更なる検証と調べが必要でもありますが、いずれ平田の戦いは、気仙郡住田町上有住根岸の平田(ひらた)での戦いである。





 おまけ・・・・

 気仙川に架かる木橋






 さらにおまけ・・・

 私も夕焼け画像を求めて少し彷徨いましたが、一応練習ということで・・・・





 夕闇迫る天ヶ森
 
コメント (17)
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