goo blog サービス終了のお知らせ 

「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

藩境物語 弐

2007-06-23 16:23:15 | 歴史・民俗
 南部領と伊達領、かつて藩境をめぐっての大小のトラブルが発生、先にご紹介した小友赤坂山金山もそのひとつですが、このような藩境線の確定は、幕府の裁定を受けながら境に塚が築かれて一応の解決をみたのが、寛永19年(1642)とされている。

 しかし、現在の花巻市東和町「覚間沢」と奥州市江刺区「学間沢」のように、自然村落が人為的に寸断された場所も存在し、藩境をめぐる争いは、その後も続いておりました。

 覚間沢(かくまざわ)と学間沢(がくまさわ)


 旧南部領・現花巻市東和町覚間沢



 旧伊達領・現奥州市江刺区学間沢


 東和の覚間沢と江刺の学間沢は、「かくまさわ・がくまざわ」と同音の地名からも分るとおり、本来はひとつの自然村落が人為的に分断されたことが伺えるものと思います。

 南部藩、伊達藩という藩政時代に分断され、現代に至っても岩手県という枠組みの中ではありますが、小中学校の学区、水道、ゴミの収集、税等の違いが定着し、自然村落時代の面影は存在していない。

 さらに藩政時代は、今よりも両地域のコミュニケーションは薄く、近くて遠い存在だったかもしれません。


 寛文11年(1671)近くて遠い隣人関係に大きなトラブルが発生する。

 伊達領の農民が越境して、南部領内に畑を開墾する。
 これをみた南部領の農民は、新開地を荒し、翌年に伊達領に畑を開くも、双方の報復合戦に発展、収拾の付かない事態に発展する。

 延宝8年(1680)、両藩の役人の調査、調停が始まるも、現地での調整は難航、翌9年10月に伊達藩では、幕府の裁定を受け、ようやく解決したといわれる。



 峠上部、向こう側が現奥州市江刺区(伊達領)、手前が現花巻市東和町(南部領)


 

 おまけ・・・

 22日、八戸の藤九郎さんが、遠野の街中の雰囲気を撮りたいと来遠、当方は勤務でお相手できませんでしたが、日帰りの予定が急遽、宿泊されたとかで、翌日、勤務明けと共に合流、短い時間でしたが、遠野を少しご案内いたしました。

 遠野郷八幡宮は未訪問ということで、八幡様へ・・・・。

 八幡様のところのニコちゃんが、出迎えてくれましたが、帰り際、同じ場所でお見送りをしていただきましたが、何を思ったか、猛然と背後の木に登りはじめました。



 藤九郎さんと、面白い画像が撮れると喜んでみてますと、急に辺りが騒がしくなり、雀の二倍はあろうかと思う鳥が来襲、ニコちゃんの回りを激しく威嚇しながら飛び回っている。

 はて?・・・すると木の中程に鳥の巣らしきものがある。
 巣の主の雛鳥でもいるのだろう・・・これに対しての激しい威嚇と攻撃だったと判明。



 ニコちゃんは、激しい攻勢の前に撤退・・・・。
 しかし、余裕の表情でもあり、予てからこの場所を知っていて、日に何度かトライしていた雰囲気が・・・巣の中の雛というより、隙あらば親鳥狙いかもしれません。

 残念ながらバトルの様子は撮れてませんでした。
コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする